2015年IS日本人人質事件における自己責任言説の分析まとめ

イスラム国(以下、ダーイッシュ)による日本人人質事件がニュースに取り上げられ世間を賑わせたのは2015年1月1)イスラム国と呼称されることも多いがIsramic Stateと勝手に自ら名乗っているだけであり、イスラム関連の方々に風評被害があることが懸念されることからアメリカ軍やトルコ政府などが呼称している呼び名。Isramic Stateのアラビア語呼び。

人質となった二人に対し要求されたのは約2億ドル。

自らダーイッシュへと赴いた日本人2人に対し「彼らの自己責任であって、日本政府はお金を出してまで助ける必要なんてないんじゃないか」という、いわゆる自己責任論が巻き起こった。

ところが、この自己責任か否かという議論に関してよく考えてみたり、調べたりするとどうにもおかしいんじゃないかと思う点がいくつかあった。

今回の記事では、デヴィ夫人のブログ記事である「大それたことをした湯川さんと後藤記者」に対して行った批判的な分析に関してのいくつかの発見についてまとめる。

注意
元は2015年後半から2016年初頭に書いた練習用の論文をブログ記事用に再構成したものです。そのため全文で2万字超となかなか長くなっています。どのような内容かは目次からご確認ください。ちなみに、2018年8月現在、3年ぶりに自己責任について研究を再開しています。ここで書かれていることとは、異なる見方も出てきましたが、また改めてまとめていくこととします。

要点をまとめた記事はこちら↓

【要点】2015年IS日本人人質事件における自己責任言説の分析まとめ

目次

諸注意

まず最初に述べておきたいことが以下のものである。

ポイント
  • この分析を行ったのは「自己責任か否か」に関する議論の決着をつけるためではないこと。
  • 分析に対しいくつかの反省があり、今後も継続的な分析や考察をしていきたいこと。

前者については最初に、後者については最後に言及します。

分析の目的

表向きの目的

ダーイッシュによる日本人人質事件における批判的な分析を行ったが、今回の分析は「自己責任」に関してどのような議論がなされたか、つまりどのような言葉の使われ方がされたのかを明らかにすることにある。

ただでさえ抽象的な「責任」という概念を論じるに当たって、一重に「自己責任論」の是非を問うのは非常に難しいからだ。

今回の件はダーイッシュが牛耳るような土地で起きた事件で正確な情報を得るのは容易なことではないという事情があった。

そうした事情を踏まえると、いくら「彼ら人質の自己責任だ」としても何をもってすれば「責任を果たした」と言えるのだろうか?

いろいろな「応え」方があるが、そう簡単に万人が納得するような「答え」は見つからないだろう。

というわけで、一端そうした大きな議論は置いておいて、事件に関して寄せられた人々のコメントにどのような意見や前提、価値観があるのかを見て取っていくことにした。

というのも、事件に関し資料を読み漁っていくうちに、そもそも議論が噛み合っていないのではないかと思うようになっていったからだ。

では、どのように噛み合っていないのか、なぜ噛み合わないのかということを言語学的な分析を通して明らかにすること、それがこの分析における目的である。

裏にある目的

とは言っても、何でもかんでも「自己責任」という言葉で片をつけるような風潮にはさすがにおかしいと感じていることには変わりはない。

今回行った分析は批判的談話研究(Critical Discourse Studies:CDS)という分析手法を参考に行った。

つもりであるが、当時、その分析の理解が浅はかであったため、いろいろと問題がある。また別記事でCDSについては解説していくこととし、今後の分析では一定の理論、方法論に則って述べるべきだと言及しておきたい。

この研究全般が掲げている目的がある。

それは、「人を社会的に不平等な立場に追いやるような力を持ったことば(言説)に対して批判的な分析を行うことで人々の情報リテラシーを高めよう」といったものだ。

ちょっと分かりにくいかもしれないが言い換えると、

「よく調べたり考えたりするとおかしなことばを丁寧に調べることでそんなことはないんじゃないかと意見を言い、言うだけじゃなくてそれを発信することでみんなに広めたり、広める中で実際のところどうなのだろうと一緒に考えることで、もっとより良いコミュニケーションを取れるようにしよう!」

というものだ。

もっとラフな言い方をすれば、「おかしなことにはおかしいと言ってみんなの意見を聞き、よく考えられるようにしよう」といった感じである。

CDSの基本的な特徴はこちらの記事にまとめている。

批判的談話研究が持つ5つの基本的な考え方

事件の概要

分析する上で前提となるような事件の概要について簡単にまとめる。

「表向きの目的」のところでも書いたが、そう簡単に「正しい」情報が何かは分からない状況にあった事件であった。

そこで事件の概要については検証委員会の報告を元にまとめる。

参考 邦人殺害テロ事件の対応に関する検証委員会 検証報告書首相官邸 政策会議

人質となった湯川さんと後藤さんはいったいどのような経緯でシリアへ出向き、最終的に殺害されてしまったのだろうか?

湯川さんの場合

湯川さんが人質として捉えられていることが発覚したのは、2014年8月14日のこと。

湯川さんは自身のブログである「♪ HARUNA のブログ ♪」にて「再び、紛争地域の戦場へ」という記事を書いていました。

参考 再び、紛争地域の戦場へ♪ HARUNA のブログ ♪

7月21日に書かれたもので、

  • 危険地域に向かうであろうこと(シリア)
  • 次の更新はおよそ1ヵ月の滞在から帰ってきてから行われること

が報告されている。

が、この記事を最後に更新されることはなかった。

目的は明らかになっていないが、民間軍事会社「PMC」という会社を立ち上げ、その関係で何度か中東地域に出向いていることから情報収集が目的だったのではないかと言われている。

ただ、ブログを見てもらえれば分かるだが、湯川さんは現地の言葉を満足にしゃべれるほどではなく、そうした危険地域に関して素人だったと言える。

2014 年 5 月 3 日の「シリア内戦観察 (戦場から二週間)」という記事によると、後藤さんとは渡航前から知り合いだったことが分かる。

また、同年 5 月 16 日17 日の記事によると、同年 6 月 29 日の「イラク分裂危機 2014 最前線!1」 にて後藤さんがテレビ朝日の報道番組である「報道ステーション」に提供されたイラクの現地映像は湯川さんにより撮影されたものだと述べ、同ブログ記事にて一緒に写真撮影をしているなど、シリアで後藤さんと対面してから交流が続けられていたことが確認できる。

このように湯川さんと後藤さんは中東地域を通して、徐々に近しい関係になっていったことが分かる。

後藤さんの場合

後藤さんは渡航前に政府から3度に渡り、渡航中止を呼びかけられている。

9月下旬及び10月下旬は電話にて、10月中旬には直接の対面にて政府による呼びかけが行われた。

そして、事件が発覚したのは11月1日、後藤さんの奥さんが予定した時期に帰って来ないことを心配して政府に報告したことが最初だった。

渡航目的は湯川さんと同様に不明であり、一部では湯川さんを助けに行ったとされている。

1 月 23 日に後藤さんの実母である石堂順子さんによって行われた会見の冒頭にて、先に拘束された湯川さんを救出するためにシリアへと出向いたということを後藤さんの奥さんが話したとのことを述べているが、具体的な渡航目的は明らかにはされていない。

トルコからシリアへ入国する直前に、後藤さんはビデオメッセージを残していた。

www.youtube.com

その冒頭のメッセージがこちら。

「何が起こっても責任は私自身にあります。どうか日本のみなさんもシリアの人たちに何も責任を負わせないでください。」

12月3日に犯人と思われる人物からのメールが後藤さん夫人に届き、それを政府へと報告し、12 月19 日 には後藤さんが何者かによって拘束されているとの確証を得るに至った。

しかし、この時点では明確にダーイシュによる犯行だとは断定できなかったそうなのである。

犯行に及んだのがダーイシュだと断定されたのはダーイシュにより1月20日に公開された動画によってだった。

このことは政府の中東地域における情報収集能力には限界があり改善の余地もあると、検証報告書でも指摘されている。

ダーイシュの要求

二人の人質と交換に2億ドルが日本政府に要求された。期限は72時間。

1月17日に行った安陪総理による中東政策スピーチでは、難民・避難民支援、人材開発、インフラ整備といった人道支援とし周辺各国へ2億ドル程度の支援を行うことがダーイシュによる要求にて引き合いに出された。しかし、それは支援が人道支援ではなく軍事支援だと曲解を加えたものであった

政府が掲げた基本方針は大きく二つある。

  1. 政府はテロに屈して身代金を払えばかえって日本国民の危険につながるなどといった理由から「テロには屈しない」という基本的な立場
  2. 人質となった二人を救出するためにも「人道第一」というもの

しかし、これは「人命を第一」とすると言いつつ要求には応じないという一見相反する姿勢でもあった。

政府は家族への配慮から、情報提供などをしていたが、実母ではあるが幼いころに離婚し別居していた後藤さんの実母である石堂順子さんにはその連絡をしていなかった。

息子である後藤さんの人質解放を訴えるために人質交換の期限直前である1月23日に記者会見を行う。

その会見はこちらで確認できる。

参考 【全文】「私はこの3日間、何が起こっているのかわからず悲しく、迷っておりました」ジャーナリスト・後藤健二さんの母・石堂順子さんが会見 (1/2)BLOGOS

その後も、安陪首相に直接面会を申し込むもそれは叶わなかった。

事件の結

ダーイシュから後藤さんが日本政府に対し、1 月24 日には湯川さんが殺害されたとみられる写真を持つ後藤さんの映像とメッセージがインターネット上で公開された。

その声明はこちらで確認できる。

参考 Japanese Hostage Haruna Yukawa Beheaded, Second Hostage Stipulates New IS Demand in Video Jihadist News

「身代金はなくてもいいから、ヨルダンに収監中の人質を釈放しろ。でなければ、自分も湯川と同じ目に合う。」

という内容だった。命乞いをするのは「自己責任」で行ったにも関わらず恥知らずだという意見もあったが、「言わされたのか」「言ってしまったのか」は定かではない。

2 月 1 日には後藤さんとみられる人物が殺害される映像がネット上に配信され、事件は人質二人の死亡という結果に終わる。

概念定義:自己責任が登場した背景

分析に入る前に、そもそも自己責任ということばはどのような背景のもと登場したものなのかについて確認しておこう。

調べてみると、意外に新しいことばとして登場したのが自己責任ということばだった。

年代的にも「小さな政府」を良しとしなるべく政府は介入せずに市場原理に任せる新自由主義が登場し、個人主義を加速させたと言われ生活に根付くインターネットが登場した時期と重なるのが気になるが、それらを絡めた分析はまたの機会に言及できたらと思う。

朝日新聞における「自己責任」使用語数の変遷

まずは実際に「自己責任」という言葉がどのように使用されてきたのかを朝日新聞のデータベース「聞蔵」を参照して調べてみた。

すると面白い結果が出てくる。

朝日新聞における「自己責任」の検索結果数

図1を見て分かる通り、1980年代後半からグーンと用いられるようになっていったのが見て取れる。

そして、1991年から2014年までの詳細な推移グラフが次の図2になる。

自己責任の検索結果数

1998年に最初のピークを迎えその使用数は約600件、次のピークは2004年約800件となる。

2004年の数値は明らかにイラク日本人人質事件の影響だ。

この時に当時の外務事務次官であった竹内行夫が 2004 年 4 月 12 日の記者会見にて、「自己責任」の原則に則って各自で安全を確保することを述べたことをきっかけに「自己責任論」が巻き起こったとも言われている2)2015 年 2 月 4 日朝日新聞朝刊 4 ページ(2015 年 2 月 4 日)『衝撃「イスラム国」人質事件 過去の教訓 1』 

この事件の影響で「自己責任」は2004年のユーキャン新語・流行語大賞トップテン入りを果たした。

日本における「自己責任論」

二つの図が示しているように、「自己責任」という言葉が新聞にて数多く用いられるようになったのはおおよそ1980年代後半からだということが分かる。

実は、この言葉が広辞苑に登載されたのも 2008 年に発行された広辞苑第6版からであり、広辞苑第5版には載っていない。また、同様に2006年に発行された国語辞典の「大辞林」にも「自己責任」は載っていない。

このように「自己責任」という言葉は比較的新しく認知され、一般的に用いられるようになった言葉であると言えるだろう。

朝日新聞で初めてこの言葉が用いられたのは1962 年の社説「産業界は自己責任制を固めよ」が最初だった。 以下がその記事内容の一部である。

自由経済の本質は企業の自己責任制にある。この点がこれまで為替管理と高率関税という温室的保護の下で、とかく明確を欠いていたが、今後はあくまでこの原則を徹底させ、企業の安易な経営態度には反省が求められねばならない。

ここで述べられているように、「自己責任」という言葉は「自己責任の原則」として経済的な用語で最初は用いられていた。

その他にも、生活保障格差問題、健康管理や危険箇所へのレジャー問題、果ては犯罪における被害者の不注意などを指摘する上でも「自己責任」という言葉が用いられるようになっていく3)2011 年 12 月 25 日朝日新聞朝刊「(取材メモから 2011 年)別府秘湯事件が解決 自己責任論の定 着、疑問」 別府秘湯事件とは、2010 年 9 月、別府市の「鍋山の湯」付近の山林で、温泉巡りに来ていた女性看護師 (当時 28)が殺害されているのが見つかった事件であり、「夜に一人で歩くのが悪い」、「無防備過ぎた」 などといった批判が起こった。

先ほども述べた通り、2004 年に起きたイラク日本人人質事件でも自己責任論が巻き起こった。こうした背景のもと、2015 年の ISIL 日本人人質事件でも人質 2 名の自己責任か否かという自己責任論が再び巻き起こるに至ったというわけでである。

批判的分析:デヴィ夫人ブログ「大それたことをした湯川さんと後藤記者」記事本文

ここから分析に入るのだが、主に二つのパートに別れる。

  1. ブログ記事本文の分析
  2. ブログ記事へのコメントの分析

なぜデヴィ夫人ブログなのか?

分析の前になぜ今回「IS日本人人質事件」を分析するに当たり「デヴィ夫人」のブログを選んだのかをきちんと説明しよう。

そうしないと自分の意見を通すためだけに恣意的な資料選択をしたとも言えてしまうからだ

こちらがその当該記事4)今見てみるとはてブではだいぶ記事内のコメントとは様相が違う…論文を執筆していた当時は「はてブ」の存在を知らなかったので気づかなかった。

参考 『大それたことをした 湯川さんと 後藤記者』デヴィの独り言 独断と偏見

ざっくりブログ記事を説明するとこうなる。

「日本国民並びに国際社会へ迷惑をかけた後藤氏には日本人としていっそ自決してほしい。読者の方々はこの事件に関しどのように考えるのか。」

この問いかけに対し、記事のコメント欄には 800件以上ものコメントが集まった。

コメント欄以外にも、この記事が Facebookにて2万件以上もシェアが行われ、そのことはBBC NEWSにも取り上げられた。

要するに「自決してほしい」発言に炎上したということである。

ちなみにFacebookでは最終的に1万件以上の「いいね!」があった(報道当時)とBBCのニュースでは報じられているが、シェアして非難している場合にもカウントとして「いいね!」にされてしまっているだけなので正確には違うと言える。

参考 Japan wakes up to bad news about Kenji GotoBBC News

ここまで騒がれたということで今回の事件における「自己責任」を考える上で一つの指標となりえるだろうということでこの記事を選んだのだ。

単純にコメント数も多く、まとまっているというのも一つの理由である。

「大それたことをした 湯川さんと 後藤記者」の概要

デヴィ夫人ブログ「大それたことをした湯川さんと後藤記者」の記事本文は、大まかに分けると

  1. 事件概要
  2. 問題提起
  3. ヨルダンの人質
  4. 後藤さんの母について
  5. 自身が後藤さんの母であった場合にする発言
  6. まとめと問いかけ

といった6つの内容から構成されている。

以下がブログ記事の該当箇所とその概要だ。

事件概要

該当箇所:1行目(無法過激組織…)から 15 行目(こんなことは…)まで。

概要
難民救済に 2 億ドルの財政支援を安倍首相が表明したことを皮切りに二人の日本人が人質となった。解決を望むが二人が捕まったのが事件のそもそものきっかけだったと冷静に考えた方が良いのではないか。

問題提起

該当箇所:16 行目(日本政府は…)から 29 行目(生まれた赤ちゃんは…)ま で。

概要
日本政府は危険地域であるシリアへの渡航中止を後藤さんに呼びかけていたのにも関わらず、「自己責任」とメッセージを残しシリアに行った。確かに後藤さんのこれまでの活動は素晴らしいことだが、後藤さんを必要とする生まれたばかりの赤ちゃんを残し、湯川さんを助けに行くことにどれだけの意義があったのか

ヨルダンの人質

該当箇所:30 行目(イスラム国は…)から 44 行目(ヨルダン国王は…)まで。

概要
イスラム国は後藤さんと引き換えにヨルダンに収監されている死刑囚の交換を要求しているが、ヨルダンには有力部族の息子であるカサペス中尉が捕まってもいる。もし日本の記者を助けようとして自国の勇士が亡くなってしまえば、革命が起きてしまうかもしれず、ヨルダン国王は窮地に立たされている

後藤さんの母について

該当箇所:45 行目(たびたび後藤さんの…)から 59 行目(事件の真髄を…) まで。

概要
後藤さんのお母様がマスコミに出てきたが、自分の息子が日本やヨルダンといった関係諸国に大迷惑をかけていることを棚に上げ、息子を救ってほしいと訴えていることは腑に落ちない。まずは地に伏して迷惑をかけていることを謝るべきであり、読者もセンチメンタルに浸っているだけでなく事件の真髄を知るべきである。

自身が後藤さんの母であった場合にする発言

該当箇所:60 行目(私は…)から 73 行目(我が子を…)まで。

概要
死を覚悟し、娘を引き連れて夫であるスカルノ大統領の元に赴いた時は殺されるかもしれないことを覚悟し、また娘の命を自らの手で断つことを願った。なぜなら娘が敵の手におちることなど考えられなかったからであり、もし自身が後藤さんの母であるなら「いっそ自決してほしい」と言いたい。

まとめと問いかけ

該当箇所:74 行目(湯川さんと…)から 86 行目(皆さん…)まで。

概要
世界を巻き込んだ二人の人質交換大事件は冷静に考えれば、イスラム国が日本の国民感情を利用しアメリカ同盟国のヨルダンに揺さぶりをかけているのが実態であり、まずはそれを知るべきである。もし交換条件を果たし、ヨルダンのカサペス中尉が無事でなかったらそれは大変に罪なことである。この事件をどう思うか?

記事の分析

後藤さんの「責任は私にあります」発言

記事で「自己責任」という言葉は後藤さんがシリア入りをする直前に撮影した動画について述べる際に「2.  問題提起」にて一度だけ言及される。次はその一節を抜き出したものだ。

日本政府は過去再三に渡って危険地域に近づくなと警告をしてきました。湯川さんは不心得にも武器を売って利益を得ようと危険極まるシリアへ足を踏み入れたのです。後藤さんは奥さんが出産するというのに湯川さんを助けに行ったのです。しかも「自分の身に何か起きてもシリアの人を責めないで、 自己責任をとる」というメッセージまで残しています。ジャーナリストの後藤さんは、これまで悲惨な戦場の模様や犠牲となった子供たちの様子を世界に知らせることに懸命に命がけの仕事をなさっていて、素晴らしいことだと思います。が、湯川さんを救うことにどれだけの意義があったでしょうか?生まれた赤ちゃんは 当然父を必要としています。

後藤さんのジャーナリストとしての活動を褒め称える一方で、湯川さんを救いに行くことにどれだけの意義があったのかという問題提起をしているのだが、後藤さんが残したビデオを見てみると「自己責任」という言葉は使われていないことが分かる

実際のメッセージはこうだ。

「何が起こっても責任は私自身にあります。どうか日本のみなさんも、シリアの人たちに何も責任を負わせないでください。」

つまり、後藤さんが意図した「責任」の所在というものは「犯罪者と認識されうるシリアの人々」ではなく「危険を承知で乗り込む自分」にあるということが読み取れる。

後藤さんのメッセージでは、具体的な「責任」の果たし方について述べるのではなく、あくまで「シリアの人々」を責める対象にしないでほしいという意図が表れていた。

広辞苑第六版による意味分けでは、「政治・道徳・法律などの観点から非難されるべき責(せめ)・科(とが)。」が当てはまり、特に今回の事件では、道徳的な観点から非難されるべきは危険地域に「自ら」 赴いた後藤さん自身にあることを意味すると考えるのが妥当だろう。

デヴィ夫人の「いっそ自決してほしい」発言

また、「5.  自身が後藤さんの母であった場合にする発言」において仮にデヴィ夫人が後藤さんの母の立場であったとしたら不謹慎ではあるがと断りを入れながらも「自決」を促すという発言がされた。

1970 年に亡命先であるパリから夫であるスカルノ大統領の元へ3才の娘を連れインドネシアへ向かう際は「敵に娘が殺されるくらいならば、いっそこの手で娘の命を絶ちたかった」というデヴィ夫人の経験のもとなされた「自決」発言なのである。

その理由としては、敵の手におちることなど考えられなかったこと、自ら手にかけることで娘を「英雄」にすることなどが述べられている

「5.  自身が後藤さんの母であった場合にする発言」においては、「4.  後藤さんの母について」における後藤さんの母の行動は息子である後藤さんが日本国内並びに国際情勢に多大なる迷惑をかけているにも関わらず、謝辞を述べることなく安倍首相に助けを乞う姿勢を不自然であると指摘しているものと対比して自身の考えを述べたものだろう

「皆さんもセンチメンタルに浸っているだけでなく事件の神髄を知るべきです。」と指摘しているが、娘の命をデヴィ夫人自身が絶つことで如何にして娘が「英雄」となるのかに関して論理的な説明はなされておらず、いささか感情的な側面が強い発言だと言わざるをえない

記事を丁寧に追っていくと、このようにおかしなところが出てくるのだ。

他にも事実誤認などあるかもしれないが、「自己責任」とは関係が薄いので深入りしてはおらず、これだけでもブログ記事では十分に偏った見方がされているのが見て取れるはずだ

記事の最後には「おかしなことがいろいろあるけど、この事件を皆さんはどう思いますか?」という形で結ばれており、2016年2月22日現在で860件ものコメントが集まっている。

批判的分析:デヴィ夫人ブログ「大それたことをした湯川さんと後藤記者」記事コメント

記事コメントの分類

まずはコメントをデヴィ夫人の意見に①賛同②異論③別の意見④その他の4つに分類しました。

①デヴィ夫人の意見に賛同:コメント内に「同意」といった表現を明確に述べているもの。一部、これらの言葉を用いてはいないが、デヴィ夫人と似た主張を主に表明するものも①に分類した。 例)支持、賛同、正論、同じ意見、その通り等

②デヴィ夫人の意見に異論:デヴィ夫人の意見には賛同せず、「自己責任」や「自業自得」ではない、助かってほしいといったことを指しているもの、記事内容の真偽を問うものなど。

③記事に関連はするが別の観点の論点やコメント:記事に含まれている「自己責任」、「中東地域への財政支援」、「ヨルダン国」、「ISIL」、「人質二名の親」などに関し、デヴィ夫人とは違った意見や感想を述べているもの。

④その他:①、②、③のいずれにも直接的に該当しないもの。 例)安倍政治への不満、メディア批判、人質事件に関して良し悪しの判断を付けられないといった趣旨の発言。

①デヴィ夫人の意見に賛同:コメント内に「同意」といった表現を明確に述べているもの。一部、これらの言葉を用いてはいないが、デヴィ夫人と似た主張を主に表明するものも①に分類した。 例)支持、賛同、正論、同じ意見、その通り等

②デヴィ夫人の意見に異論:デヴィ夫人の意見には賛同せず、「自己責任」や「自業自得」ではない、助かってほしいといったことを指しているもの、記事内容の真偽を問うものなど。

③記事に関連はするが別の観点の論点やコメント:記事に含まれている「自己責任」、「中東地域への財政支援」、「ヨルダン国」、「ISIL」、「人質二名の親」などに関し、デヴィ夫人とは違った意見や感想を述べているもの。

④その他:①、②、③のいずれにも直接的に該当しないもの。 例)安倍政治への不満、メディア批判、人質事件に関して良し悪しの判断を付けられないといった趣旨の発言。

分類した結果が図3である。

ブログ記事コメントの分類

860件中641件(78%)もの人がデヴィ夫人の意見に賛同、②の異論が16 件(2%)、③の別の観点が102 件(12%)、④のその他が63 件(8%)だった。

かなり賛同意見が多い結果となった

が、こういったブログにコメントする人はもともとファンの方などが多いかと思われることと、記事内容が二人の人質に対する批判的なものだからそれに同調した人しか賛同意見として書き残さなかったとも言えそうだ。

当然ではあるが、コメントは一言のみ同意を表明するものから長文のものまで様々であり、それぞれの観点が一つのコメントに含まれるものもあった

しかし、ここではあくまでコメント全体としてどのような内容であったかを示すに留めるだけで十分だと判断したため、 大まかな分類しか行っていない。

記事コメント内における「自己責任」の使用語数

次にコメントで「自己責任」に関連する言葉(自己責任、責任、無責任、自業自得)がどの程度用いられたのかを調べた。

その結果が以下の図4である。

ブログ記事内の「自己責任」に関する言葉の使用語数

コメントでは、「自己責任」という言葉が最も多く使用され860 件中124 件と1割以上のコメントにおいて言及された

「責任」は 56 件と「自己責任」より使用回数が少なかった一方、家族に対しても自身の発言に対しても「無責任」だとする意見も一部見受けられた。また、「自業自得」という言葉も「自己責任」よりも語数は少ないが非難を表明する言葉として用いられていた。

「責任」「非難」を表明する言葉が 860 件中216 件と、概算で4分の1のコメントにて言及されたことになる。

記事における「自己責任」の意味分類

今度は「自己責任」がどのような意味合いで使われていたのかを文脈から分析し、大きく4つ(リスクマネジメント、非難、リスクマネジメント+非難、その他)に分類した。

①リスクマネジメント:危険地域に自らの意志で赴いたことに対する「責任」を指すもの。

②非難:リスクマネジメントを問うことなく、道徳的責任を指すもの。例)「100%自己責任の何者でもない」など特に「自業自得」と置き換え可能で、具体的なリスクマネジメントといった「責任」概念に対する言及がないもの。

③リスクマネジメント+非難:①と②の両方の意味における「責任」を問うもの。例)「軽率な行為なので自己責任」など、「軽率」といった非難を意味する価値判断がリスクマネジメントと共に言及されているもの。

④その他:「自己責任」の定義や言葉そのものなどを意味するもの。 例)「自己責任論」

表1 自己責任の意味分類
リスクマネジメント 非難 リスクマネジメント+非難 その他
50 13 46 33

意味分けが難しいものもあったが、おおよその分類分けは出来たかと思う。

こうして表1の結果を見ると、思ったよりただの「非難」で「自己責任」が使われているケースは少なかった

やはり、「リスクマネジメント」としての意味合いが強かったという印象である。

一概に「自己責任」という言葉を使ったから批判すればいいというものでもないのが、少しでもデータを取って見ると分かることだと痛感した。

コメントの分析に前に

ここから批判的にコメントを取り上げはするが、この分析ではあくまでこの事件における「自己責任」概念がどのような意味や意図の元で用いられているか、またこの言説を再生産する要因とは何であるのかを考察するためのものである。

人質となった二名の「自己責任」なのか否か、また取り上げたコメントの是非を決めるために分析を行うのではないということをもう一度明記しておく。

「自己責任」と「無責任」

「自己責任」に関するコメントを分析していくと、人質となった二人の「自己責任」であると述べる人と彼らの「自己責任」では済まされないという言及が見られた。また、それ以上に「無責任」であると指摘する声もある。

これは一見すると相反することが述べられているようだが、両者に共通するのは人質二人に対する「責め」を表していることだ。順にそれぞれを代表するコメントを取り上げ、検証してみよう。

人質となった二人の「自己責任」?

『同感!!!!!!』

私もそう思います。

自分から危険な地域に行ったのに、何で、国が責任を取らないといけないのか。と思います。

あなたのために、日本は多額のお金、時間を取られるのです。

後藤さん、解放されたら、どんな顔をして日本に帰って来るのでしょう。自己責任です。

デビ夫人、誰も心では思っていても、言えなかったのに。

後藤さんの自己責任なんです。

日本や政府に迷惑かけないで。

「人質の自己責任」という意見

このコメントにおける「自己責任」は後藤さんが負うとしている「責任」と政府における「責任」が対比して用いられています。その上で、今回の事件における「責任」は「自ら」危険地域へ乗り込んだ後藤さんにあり、政府が負うものではないとしている。

このコメントにおいて後藤さんにどのような果たすべき役目があるかは述べられていないため、この「自己責任」は後藤さんがビデオメッセージにて述べた「責められるべき」対象としてその「責任」を負っていると解釈できる。

しかし、だとすればこのコメント内における後藤氏の「自己責任」とするものと政府の「責任」とするものは同じ「責任」という言葉を用いていてもその指し示す意味内容が異なっている。それにも関わらず両者を混同して用いているため、それぞれの立場におけるこの事件の「責任」とは何であったのかといった具体的な問題を議論するには至らないのである

また、注目すべきはこのコメントにおける「自己責任」は「自業自得」にも言い換えられることだ。そのため、このコメントは『「自己責任」の意味分類』にて「非難」に区分している。

このように文脈によっては「自己責任」という言葉には具体的な「責任」内容が明示されておらず、「非難」の装置として機能しているものが見受けられた。

『同感です。』

まったく同感です。

自分達の勝手な行動が、どういう事になるか?どれだけ危険な国か?予見出来なかったのか?自己責任なんて甘い言葉で済まない事を、ジャーナリストなら心得ていたはず。国民、政府ばかりでなく、国際社会、殊にヨルダンには 多大な迷惑をかけたことを、 命のある彼は、どう責任をとるのか?命は尊いのは当たり前。しかし、これだけの事態に親が命請いなんて出来ない事だと思う。自分が母親として同じ立場なら、ただただ詫びるだけで、命請いなど出来ない。母親なら腹を括って絶えないと。彼女の言葉に愛を感じないのは私だけだろうか?

「自己責任」では済まされないという意見

このコメントでは「国民、政府ばかりでなく、国際社会、殊にヨルダンには多大な迷惑をかけたことを、命のある彼は、どう責任をとるのか?」と述べられている通り、事態は「自己」で負える「責任」を越えてしまっていることについて言及している。

この文脈における「自己責任」とは、後藤さんがビデオメッセージにて述べた「責められるべき」対象は「自分」にあると言ったものとは異なり、何かを起こした際に個人が請け負うことができる「責任」を指しているのだ

つまり、起こしてしまった問題を一個人のみで解決できることが、この「責任」が指し示す具体的な内容だと言える。けれど、そうした「責任」が負えないことはこのコメントでも指摘されている。

ということは敢えて出来ないと分かっていながら言及していることになる。

よって、この「自己責任」は『「自己責任」の意味分類』にて「リスクマネジメント+非難」に区分した。

人質となった二人は「無責任」?

『日本が狙われる危機』

痛み分けや、かわいそうなど、感情論で言ってはキリがない問題に発展していると思います。

私は日本・日本人がこれからテロに狙われる可能性が今回の件でとても高くなったと思っています。

なんて湯川さん、後藤さん、なんて無責任な方々なのだろうかと正直思ってしまいます。

後藤さんの母に至ってはもう…。

また、ツイッターでイスラムなどを挑発しているという愚かな平和ボケな一部日本人によ り、イスラムが日本を敵国と認識しテロなどに合う可能性をあげましたよね。

デビィ夫人のご意見、よくわかります。

日本人はよく考えるべきだと思います。

人質は「無責任」であるという意見

このコメントでは、1文目にてもはや問題は人質に対し同情を寄せる感情的なものでは済まない、つまりより深刻な問題に発展していると述べられている。

その問題とは日本・日本人がテロに巻き込まれる危険性が二人の行為により高まったということだ。

こうした事態を引き起こすきっかけとなった人質二名に対し「無責任」だとしているのがこのコメントである。

コメントの最後にある「日本人はよく考えるべきだと思います。」という発言はデヴィ夫人の記事における「皆さんも、センチメンタルに浸っているだけではなく、事件の神髄を知るべきです。」と呼応しており、デヴィ夫人の意見に同意を示している。

同情でもなく、二人のリスクマネジメントに関して言及するわけでもなく、自身を含む周囲を巻き起こす事態に発展するきっかけを作った人質に対し「非難」の言葉を投げかけていることが分かる。

「自己責任」と「自業自得」

前述の『同感‼‼‼』で取り上げたように、「自己責任」という言葉は「自業自得」に近い意味合いを持つ場合があった。

「自業自得」が用いられたコメントを取り上げ、「自己責任」 の意味合いとの比較検討を行ってみよう。

『スッキリしました!』

連日報道されていますが、テレビを見ていて、一刻も早く、救出などの言葉が飛び交っていて、納得がいってませんでした。デヴィ夫人の問いかけにスッキリしました!私は自業自得だと思います。行くなと行ってそれでも行く人は自己責任だと思います。助けを求めるのであれば家族はしがみついてでも行かせないべきです。国が動いてる動力をな ぜ救出にと思います。国からの派遣で行った方は救出に全力を注ぐべきだと思 います が。今の日本の騒ぎ方はヨルダンの方々に失礼だと思います。

「自業自得」だとする意見

このコメントにおいて前提となるのは、人質自身が自由意思のもと行動したということだ。

その結果引き起こした事態であるのだから本人たちにはそうした事態が起こりうる可能性を受け入れる「責任」があるということになり、それがこの「自己責任」が指し示す内容である。

しかし、それでもなお「責任」が具体的に指し示す内容は明示されてはいない。

後半における「助けを求めるのであれば家族はしがみついてでも行かせないべきです。国が動いている動力をなぜ救出にと思います。国からの派遣で行った方は救出に全力を注ぐべきだと思いますが。」というコメントから解釈を試みると、自分で危険地域へ向かった者は日本政府が助ける必要はなく、自力で助かる方法を探す他ない、それが「自己責任」だとするものではないだろうか。

つまり、前提として自ら悪い事態を引き起こした「自業自得」があり、その解決策は「自己責任」の元に誰からも助けを求めるべきではないということになる

「責任」の所在

しかし、ここでもまだ疑問は残る。

  • 仮に人質の「責任」はそうだとしても政府の「責任」はどのように考えるべきなのか?
  • 「非難」の「自己責任」が言うように政府は「自業自得」である人質には何もする必要はないのか?

ということなどだ。

つまり、それぞれの立場における「責任」とは何であり、最終的に「責任」を負うのは誰で、その内容はどのようなものになりうるのかということになる

そして、そうしたことを明らかにした上でどうすべきだったのかといった議論が展開されるはずだ

そこで、コメント内にて「自己責任」 における主体と具体的な責任内容が明記されているかを分析したのが以下の表である。

表2 「自己責任」の主体と責任内容の有無
明記あり 明記なし
主体 52 90
「責任」内容 7 135

表2の通り、両者とも「明記あり」より「明記なし」の数の方が多かった。

特に具体的な責任内容が明記してあるコメントはたった 7 件のみであった。

『無題』

その通りですね。

私はニュースを知った時、物凄く恐ろしいことが起こったと思い毎日ニュースをチェックし無事を祈っていました。

でも、今このブログを拝見し冷静に考えれました。自己責任ですね。

誰かに頼まれたわけでもなく優先順位が我が子、嫁より他人ってわけですもんね。死にに行ったと言っても過言じゃないですね。

「責任」内容の明記なし

このコメントにおける「自己責任」は最後の「死にに行ったと言っても過言じゃないですね。」という発言と「自業自得」という言葉にも置き換えられることから「非難」の意味に区分した。「自己責任」という言葉が単発で使われており、主体もその「責任」を指し示す内容も明示されていない。

『重みが違う』

国民の多くが思っていても、誰も口に出来なかったことを代弁して下さったと思います。

紛争地へ行くことで誰にも迷惑をかけないということは、無事に帰ってくるか、自己責任のもと自らの命も捨てる覚悟を持つしかないのですね。家族も、容認した、止められなかった時点でおなじこと、と。

夫人ご自身のエピソードを読んで、私達はまさしく平和ボケが過ぎるのだと自覚致しました。自分に限って大丈夫という過信は、あまりにも無責任ですね。

この記事は良くも悪くも反響が大きいことと思いますが、例え批判が大きくてもこの記事は消さずにいてくださればと願います。とても大切な事が書かれていると感じるので…。 失礼いたしました。

「責任」内容の明記あり

このコメントにおける「自己責任」とは、自らの命を捨てる「覚悟」を持ち実践することであると考えられている。「リスクマネジメント」にも「非難」にも一概に属すとは言い難いため「その他」に区分した。

このように、「覚悟」の有無について言及するコメントが比較的多くあった。

考察:言語学的な分析

「自己責任」と「覚悟」

ブログコメントではたびたび「自己責任」「覚悟」という言葉が共に用いられ、特に後藤さんの「責任」について述べる時に言及されることが多く見受けらた。これらの関係を紐解くことで後藤さんの「責任」が如何に捉えられていたかを掴む手掛かりになるはずだ。

まず考慮すべきなのは、シリアという日本政府の手の及ぶ範囲を逸脱した危険地域で後藤さんが拘束されていたということである。

こうした状況下で人質となった後藤さんに取ることができる「責任」とは如何なるものと想定されるのだろうか。

ただ単に後藤さんの「責任」を追求したというものや、帰国してから何が原因でこのような事態に陥ったのかを話す説明責任があるとしたコメントがあった。

いずれにしても後藤さんが「責任」を果たすには生きて日本に帰らなければならないという前提がある

ですが、前提とすべきなのは後藤さんがシリアにて人質として拘束されているということであり、そこで後藤さんが可能な行動は皆無に等しく、事態を収拾する手立てなど残されていないといっても過言ではないということだ。

そこで登場したのが、「責任を取れもしないのに自分に責任があると言ったのは無責任である」「死の危険性がある場所へ自ら赴いたのだから、その覚悟をすることは当然である」といった趣旨の言及である。

上述した通り、日本政府の手の及ばない地域でテロリストに拘束されるという極限の状況下で、後藤さんが取れる手立ては皆無に等しかったのだ。そこには死を覚悟するしかないというものだが、ここにもいまだに何もすることがないという前提がある。

しかし、この前提は後藤さんが自決を選択することができるという意味で間違っているとも言えるかもしれない。

確かに、後藤さんが自決すれば、テロリストは日本政府、ヨルダン政府との交渉の手立てをなくす。

そこで、唯一の「責任」を果たす方法は自決するしかないという考えが生まれるのではないだろうか。

こうした極限の状況だからこそ、デヴィ夫人が自決を促し、またそれに同調するコメント等が現れたと考えられる。

しかし、自らの命を投げ出してまでも「責任」を果たす必要があるのかといった疑問は残るわけだ。

そもそも後藤さんが残したビデオメッセージには「自己責任」という言葉は用いられていなかった。

後藤さんの発言の趣旨は何かが自分の身に起きてもシリアの人々に責任を負わしたくないといったものだったのである。

そうだとしても、後藤さんの口から出た「責任」が具体的に何を指すのかは明らかではないが、少なくとも特定の誰かを責めたところで問題が解決されないことは確かなのだ。

本来、この事件を引き起こすきっかけになったとするべきなのは日本人二名を人質に捕り、その交渉を日本政府、ヨルダン政府に行ったダーイッシュだと言うのが妥当ではないだろうか5)それでも本当に「イスラム国」だけが悪いのかという問題も当然ながら残る。

今回の事件でフォーカスが当たったのは人質二名の生い立ちやその責任の如何ばかりであることは、デヴィ夫人の記事内容に対し異論を表明する以下のコメントでも指摘されている。

『確かにそうは思う。』

確かにそうは思います。母親に関してはぼくも賛成です。

しかし、後藤健二さんに関しては僕は違う意見を持っているので、聞いてもらえればと思います。まず、どこのnews を見ても誰の意見を聞いても、スポットは後藤健二さんに当たっています。僕はそれが腑に落ちません。この出来事は起こるべき必然の出来事だったと思います。それがたまたま後藤健二さんになりました。スポットを当てるべきはイスラム国と諸所国です。どうして、イスラム国が孤立し、はぐれ者が集まり、テロを起こすのか。問題はそこにあると思います。イスラム国に後藤健二さんはそのネタにされただけです。

確かに日本にとっては、遠い遠い国の話で直接関係ないことです。だから、踏み込むな。踏み込んだら、お前責任とれよ。といえば簡単なことかもしれません。でも、世界にはイスラム国に嫌でも怯えてる人がいます。野放しにはできません。僕たち日本人は向こうに行けば所詮よそものです。それが悔しいです。しかし、誰かが小さな一つ一つで変えていかなくてはいけないと思います。

今回に限っての後藤健二さんの理由は友達を救うためと確かに無謀かつ自分勝手です。しかし、僕には友達一人の為にそんなところへ乗り込む勇気はありません。みんな簡単にいいますが、もし自分の立場だったらどうするか。助けることなど考えずに仕方ない。諦めるしかない。と思うはずです。見習うところはたくさんあると思います。

成人したばかりで、普段ヤンチャしてますが、僕の夢も近いものがあります。道はあると思います。 失礼しました。

このコメントで指摘されているように、ISIL日本人人質事件でフォーカスが当たるのはダーイッシュではなく、人質二名となるケースが多く見受けられた。

実際、その一環としてデヴィ夫人のブログ記事「大それたことをした湯川さんと後藤記者」がFacebook にて2 万件以上もシェアされ、そのことが BBC News でも取り上げられたと言える。

こうした事態は「自己責任」という言葉が一種のキャッチコピーとして機能していると僕は睨んでいる

では、その「自己責任」という言葉には言語学的にどのような意味合いや機能があると言えるのだろうか?

「自己責任」の二重名詞化と多義語化

「自己責任」という言葉は「自己」と「責任」という二つの名詞によって成り立っている言葉だ。

「自己」を指し示す対象は今回の事件では文脈上、人質となった二人もしくはどちらかを指すものであり分かりやすいが、ここに「責任」という曖昧な概念が付与されることでさらに曖昧な概念と化しているのが「自己責任」という言葉なのではないだろうか?

まず注目すべきなのは「責任」は「~の責めを負う」「~を果たす役目、義務がある」といったものを名詞化して表現したものだ。

名詞化とは、動詞を含む節を名詞形にすることで、本来は文脈上の過程として表現できることを省き結果として表象する文法的隠喩のことです6)Norman Fairclough(2003)「ディスコースを分析する 社会研究のためのテクスト分析」 日本メディア英語学会メディア英語談話分析研究分科会訳、くろしお出版(Norman Fairclough(2003) Analysing Disc ourse: Textual analysis for social research,  Routledge)

今回の事件で例を考えると、「人質は自らが招いた事件を収拾させる必要がある」「人質が招いた事件として責めることは正当化できる」といった文章で「責任」を表すことができる。

しかし、名詞化は時に社会的作用者(主語)やその行為作用(目的語)の排除を伴う

つまり、具体的な責任内容が捨象されてしまい、本来の責任概念がより一層曖昧になってしまうということである。

そのため、何を責任となすのかといった具体的な内容を指し示すことなく、ただ「責任」という言葉が用いられる場合が多くなっていたのではないだろううか?

そうした曖昧な「責任」という言葉に「自己」を付け加えることでどのような意味が付加されているのか?

一見すると、その意味内容がより明確になっているかに思えるが、そうとも言えない

「自己責任」という言葉はただ当事者の責任を追及するものではなく、「自業自得」と同様に非難を意味する言葉として用いられていた。

同様の指摘は『2015 年 3 月 7 日朝日新聞朝刊、私の視点、「自己責任論 非難の装置ではない」』にてもされている。

以下はその一部引用である。

私たちが最近クールな言葉として使っている「自己責任」が、悪意を持って人を非難する時の「自業自得」と同意で使われていることに気づくべきだろう。自分の悪行の報いは自分が受けなければならないという、行為者を非難するための装置になっているのである。

ではなぜこのように「自己責任≒自業自得」として用いられるようになってしまったのか。

これは「自己責任」という言葉が多義語化しているからと捉えられるのではないだろうか?

多義語は「放射状カテゴリー」「連鎖」の絡み合いによって発生する。

放射状カテゴリーとは、ある言語表現が同じ属性ではあるが別の表現に拡張すること

また連鎖と は、ある言語表現が本来表していた表現 A から B、B から C へと共通の属性に基づいて別の表象へと変化していくことです7)深田智・中本康一郎(2008)「概念化と意味の世界 認知意味論のアプローチ(講座 認知言 語学のフロンティア)」研究社

こうした言語表現の認知的変化が、これまで起きてきた社会的プロセスと共に行われてきたと考えられる。

分析のまとめ

ここで問題となるのは「自己責任」という言説がいつどのように誕生したかということではない。

問題となるのは観念や言説を再生産し維持する過程なのである8)浜本満「イデオロギー論についての覚書」(2007)を参考。言説空間内における「真理化のプロセス」は結果的に真理的なものとしてみなされてはいるが、必ずしもそれが真理であるとは確定できず、それ故に言説において描きとるべきものは真理化される「過程」であるというもの。ウィリアム・ジェイムズのプラグマティズムを援用して展開されたもの。面白いので後述、記事にする。

そういった意味で、この分析にてそれらの過程を十分に吟味した上で導き出された「正しい」結論と論じるのは時期尚早だと考えている。

今回は時間的制約上、また自分の知識不足から十分に確固たる証拠を挙げきれたとは到底言えないが、少なくともISIL日本人人質事件でささやかれた「自己責任論」というものが如何様なものであったかの視座を指し示すことはできたのではないかと思っている。

今後も同様のテーマで論文を執筆していく際には、CDSがかねてから指摘されている批判とも向き合いつつ、推敲を重ね、より「正しい」ものにしていく所存だ。

さまざまな反省点

敢えて発信した意味

もし間違った解釈があれば指摘して頂けると幸いである。

というのもここに書いていった目的としては、表に晒していくことで見えてくる知見もあると思ったからだ。

厳密に言うと、それぞれの解釈にも危ういところがあると自覚している。

であるから、おこがましいかもだが読んで頂いている方にもまずは是非疑ってみてもらえたらなと思う。

というのもCDSでは分析者が表立っていくもので、主観的な要素を排しきることはできないものだからだ。

それに関しては客観性を重んじる学問という名を関する限りでは誤った考えをもたらすとして逆に危険視されている

だからこそ、間主観性が重要なのではないかと考えているのだ9)ざっくばらんに言うと、複数の主観を介して成り立つものこそが実際の認識が成り立つ根幹になるというものだと理解している。が、これまた哲学史上としても様々な議論を経て至ったフッサールの「現象学」を元にしており、さらにここから議論は展開されている。だが、そのすべてを僕自身がカバーすることはできていないため厳密には間違っていると自覚している。であるから、あくまで暫定的にそう仮説を立てていると思って頂けたらと考えている。

新聞について

今回、自己責任がどのように用いられてきたかを朝日新聞の例で示した。

だが、実は他の新聞も同様に比較してみるとまた異なった結果が見られる。

本来であるならば、日本で全国紙として展開されている主要5紙(朝日、読売、産経、日経、毎日)辺りは網羅的に分析していく必要があるはずだろう。

論文執筆当時、海外にいたこともあり、分析しきれなかった…反省している。

言説を批判することによる逆説的なデメリット

例えば、女性の社会的価値がこれまで蔑まれてきたのだから反対に男性の価値を蔑むことが正当化されてしまうというのはそれはそれで問題だ

やったらやり返すオウム返しのようなことになってしまっていたら、根本的な問題は解決していかないと考えている。

であるから、「自己責任論」を批判的に論じるということは同様な結果をもたらす可能性があるのだ。

そうはならないように気を付けたつもりだが、言葉足らず、もしくは無意識化に(と言ってしまうのも言い訳か?)批判してしまっているかもしない。

もしそうなってしまっていたら謝りたい。

最後に

分析を通して見えてきたのは、「自己責任」ということばを使っているからといって反射的に「そうだそうだ!」と賛成したり「おかしい!」と反対するのは危ない側面があるということだ。

このようにただ概念としての「自己責任」を論じることより、実際に使われたことばを通して見えてくるものがある。

そんなことばの些細なようで重要な違いに耳を澄ませるような、考えを持てるように意識的にしていければ良いのではと思う。

注釈・参考文献   [ + ]

1. イスラム国と呼称されることも多いがIsramic Stateと勝手に自ら名乗っているだけであり、イスラム関連の方々に風評被害があることが懸念されることからアメリカ軍やトルコ政府などが呼称している呼び名。Isramic Stateのアラビア語呼び。
2. 2015 年 2 月 4 日朝日新聞朝刊 4 ページ(2015 年 2 月 4 日)『衝撃「イスラム国」人質事件 過去の教訓 1』 
3. 2011 年 12 月 25 日朝日新聞朝刊「(取材メモから 2011 年)別府秘湯事件が解決 自己責任論の定 着、疑問」 別府秘湯事件とは、2010 年 9 月、別府市の「鍋山の湯」付近の山林で、温泉巡りに来ていた女性看護師 (当時 28)が殺害されているのが見つかった事件であり、「夜に一人で歩くのが悪い」、「無防備過ぎた」 などといった批判が起こった。
4. 今見てみるとはてブではだいぶ記事内のコメントとは様相が違う…論文を執筆していた当時は「はてブ」の存在を知らなかったので気づかなかった。
5. それでも本当に「イスラム国」だけが悪いのかという問題も当然ながら残る。
6. Norman Fairclough(2003)「ディスコースを分析する 社会研究のためのテクスト分析」 日本メディア英語学会メディア英語談話分析研究分科会訳、くろしお出版(Norman Fairclough(2003) Analysing Disc ourse: Textual analysis for social research,  Routledge)
7. 深田智・中本康一郎(2008)「概念化と意味の世界 認知意味論のアプローチ(講座 認知言 語学のフロンティア)」研究社
8. 浜本満「イデオロギー論についての覚書」(2007)を参考。言説空間内における「真理化のプロセス」は結果的に真理的なものとしてみなされてはいるが、必ずしもそれが真理であるとは確定できず、それ故に言説において描きとるべきものは真理化される「過程」であるというもの。ウィリアム・ジェイムズのプラグマティズムを援用して展開されたもの。面白いので後述、記事にする。
9. ざっくばらんに言うと、複数の主観を介して成り立つものこそが実際の認識が成り立つ根幹になるというものだと理解している。が、これまた哲学史上としても様々な議論を経て至ったフッサールの「現象学」を元にしており、さらにここから議論は展開されている。だが、そのすべてを僕自身がカバーすることはできていないため厳密には間違っていると自覚している。であるから、あくまで暫定的にそう仮説を立てていると思って頂けたらと考えている。

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 * が付いている欄は必須項目です