文系軽視を考える上での論点の考察-如何に役立つかではなくなぜ文系・理系で分けるのか?

最近は文系軽視という言説(仮)に注目している。この問題を考える上での争点は「如何に文系が役立つか?」ということではなく、以下に挙げる大きく二つのことに注目した方がいいのではないだろうか。

  1. なぜ文系・理系という大変大雑把な区別のまま議論がなされているのか?
  2. 文系は理系に、理系は文系に接近している、もしくは混ざっている

文系軽視は仮の言説

そもそもの話なのだが、この「文系軽視」という言葉が言説かというとハッキリと答える自信はない。

まだ言説というものがフーコー的な言説、マルクスのイデオロギー的な意味合いを持った言説、もしくは批判的談話研究(Critical Discourse Studies:CDS)として定義されうる言説というように大変複雑な概念であり、CDSが恣意的な資料選択をしているのではないかという批判が浴びせられている以上、慎重な検討が必要だと考えている。

だが、今回の記事ではひとまずこうした「文系軽視」という言葉を焦点に議論がたびたび起こっていることを念頭に、そのような議論を考える上ではそもそも「文系」という言葉があまりにも広すぎるために、まともな議論にはならずにただのポジショントークを繰り広げてしまうのではないかという問題意識のもと、考えていきたいと思う。

ただ文系が役立つと言ってもしょうがない

こうした議論の際に、たまに聞くのが「文系が社会を作っている」「文系は人生を豊かにする」といったようなものだ。そうした声がどの程度あるかは分からないが、少なくともこの程度の主張は文系でなくとも理系においてもすることが十分に可能だろう。

だから、ただ「文系は役立つんだ」という類の主張は有効な反論になりうるとは思えない。

そもそも、こうした議論が行われているのは政治的な領域において、財源の分配をどのようにするかや、大学の指針をどのように方向づけていくのかといったもののはず

なので、焦点を当てるべきなのはそれらの領域、つまり政治だが、議論がかみ合っていないのではないかという気がしている。

論点①文系・理系という大雑把すぎる区別

そもそも、この議論における文系とはいったい何を指しているのだろうか?

まだ詳しく資料等を分析したわけではないのだが、目についたものはそうした定義をハッキリとは示してはいないようだった。

ただの一般論として「文系」を捉えているだけなのかもしれないが、それこそ学問的とは言えない議論に陥っているのはなぜだろうか?

当然、この議論の主体はそれぞれ誰で、その人たちはそれぞれどのような社会的立ち位置のもとに発言を行っているのか、またそれらはどのような媒体でなされまた拡散されているのかといった点を丁寧に見て取っていく必要がある。

文系の中にも哲学や文学等を含んだ人文学から人文科学社会科学と呼ばれるようなカテゴリーもあり、またそれらの中、特に文系を代表するかのように思われる哲学の中にも論理学やそもそも科学とは何かと考える科学哲学などがあることを鑑みると、こうした細分化された専門分野がある中で、さらにそれらの中にも多種多様な研究対象がある中で「文系」とひとくくりにしてしまうことには違和感を禁じ得ない

論点②文系は理系に、理系は文系に隣接・融合している

文系の対比としてすぐに思い浮かぶのは、当然ではあるが「理系」だ。

だが、こうした文系・理系という大雑把な区別は先ほど述べた通り建設的な議論になりそうにない。

さらに言うと、そもそも学問を「文系」「理系」という二項対立的に分けてしまうことは二つの領域が互いに行き来しているだけでなく、そもそも混じり合って存在していることを考えると、この「文系軽視」という言説はおかしなものに思えてくる。

学問はそれを行う主体がどうしてもあり、特に人文科学・社会科学の領域では主観的な要素を客観的なものにしていくための様々な努力が行われている。

例えば、人類学では参与観察という手法が、人類学に限らず社会学的な領域におけるインタビュー調査等では理論的飽和に至るまでに徹底的なブラッシュアップが行われているわけだ。

これらはどこまでやったとしても完全に客観的なものにできるとはとてもいいがたいが、そうした努力は当領域に関わらずあらゆる学問においても基本的な方針としてなされているものだ。

ところで、経済学は文系なのだろうか?理系なのだろうか?

数学を用いているモデルをベースにした科学的で理系的だと言うのか、それとも対象とするのは人間的な活動なのだから文系なのだろうか?1)何を持って科学とするかは科学哲学においてもさまざまな議論がなされている。ポパーが言うような反証可能性があるものが科学だとする立場も、前提となる条件を疑えばどこまでも疑うことが可能であり反証不可能性に陥ってしまうことを考えると、そうした科学観も一種の妥協であり、決断がなされて行われていると言える。また、専門用語や理論となる科学的な体系もある領域の科学者における一種のコミュニケーションが成立するか否かという風にも捉えることが可能だ。こうした問題点からファイヤ・アーベントは「方法論的虚無主義」を唱えたが、それは科学の方法論は「Anything goes(なんでもいい)」という極端な立場を取るものだった。こうした科学哲学は「文系」なのだろうか?理系なのだろうか?

経済学だけでなく、ロボット工学においても石黒浩さんのようなアンドロイド開発を通して「人間とは何か?」と考えるのものもある

それは理系なのだろうか?文系なのだろうか?

この他にも挙げていけばキリがないが、一つ言えるのは文系・理系という区分は大雑把なだけでなく、そもそも混じり合った領域として、ある種グラデーション的に存在しているということだ。

まとめ

文系軽視を考える上では文系が役に立つ・立たない、理系は役に立つ・立たないという議論では前提が共有されず、本来的にある政治的な議論にもならないことを指摘した上で、以下の二つの論点に注目した。

  1. なぜ文系・理系という大変大雑把な区別のまま議論がなされているのか?
  2. 文系は理系に、理系は文系に接近している、もしくは混ざっている

こうした点に注意しながらの慎重な議論を行わなければ、ただ各々のポジショントークとして好みを論じているに過ぎないことになってしまうのではないだろうか。

この他にも様々な観点から考えることができるし、最初に述べたようにこの「文系軽視」を言説として取り扱ってしまうには少し早計だろうかとも思う。

学問的な論述として精錬化していくにはまだまだ理解の足りない、考えるべきこと、分析すべき対象の明示などあるが、また一つの形として論考がまとめられれば書き記していきたいと思う。

【関連記事】

文系学部廃止論争を調べる際の参考資料まとめ【更新:18/01/09】 書籍:「文系軽視」を考える上でまず買った2冊―『大学とは何か』・『「文系学部廃止」の衝撃』

注釈・参考文献   [ + ]

1. 何を持って科学とするかは科学哲学においてもさまざまな議論がなされている。ポパーが言うような反証可能性があるものが科学だとする立場も、前提となる条件を疑えばどこまでも疑うことが可能であり反証不可能性に陥ってしまうことを考えると、そうした科学観も一種の妥協であり、決断がなされて行われていると言える。また、専門用語や理論となる科学的な体系もある領域の科学者における一種のコミュニケーションが成立するか否かという風にも捉えることが可能だ。こうした問題点からファイヤ・アーベントは「方法論的虚無主義」を唱えたが、それは科学の方法論は「Anything goes(なんでもいい)」という極端な立場を取るものだった。こうした科学哲学は「文系」なのだろうか?理系なのだろうか?

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 * が付いている欄は必須項目です