社会を知るために「思い込み」をぶち壊していく―社会調査のための「量的研究」と「質的研究」とは

下記の記事で、社会とはなにかを考える上で最小の社会と思われる「私と両親との関係」について簡単に説明した。

社会と個人―最小の社会である「私と両親との関係」から見える社会の特徴

社会とは、ひとまず何かしらの「関係」によって成り立っていると捉えることができそうだが、では、その社会を知るためにはどうすればいいのだろうか?

社会を正確に捉えるためにも「思い込み」をぶち壊す

まず、重要なのが、これまで自分が考えてきてしまった「思い込み」をぶち壊すことだ。

なぜか?

高校生くらいになるまでには、おおよそ「自分が生きてきた”社会”はこんなもので、だからきっと”社会”はこういうものだろう」と想像するかもしれない。しかし、まずはそういった「思い込み」を安易に一般化しないように注意しなければならない

ここでいう「一般化」とは、「自分の知識や経験、さらには価値観に突き合わせて、あらゆる物事について当てはまるかのように考えてしまうこと」である。

なるべく正確に「社会」を知るためには、いったん、自分の考えから一歩引いて考えることが重要だ。

人文社会科学は、「人間・社会・文化」というものを研究するのだから、自然科学のように実験できるわけではないし、また時代や地域によって変動してしまうものだと言える。しかし、だからこそ、安易に「一般化」してはいけないのである。

人間が「人間・社会・文化」を知ろうとするのだから、当然、一定の偏見(バイアス)がかかってしまうことは避けられない。どんなに抽象的に考えても、どんなに資料やデータを正確にしても、どこかしらで「解釈」するステップが入る。優秀な社会調査は、こうした「解釈」の中で生まれてしまう偏見、言うなれば「思い込み」をなるべくできないよう、操作を行ってなされるのだ。

こうした操作の方法論は、各々の研究者が研究する上で持つ問題意識や問い(リサーチ・クエスチョン)や、前提とする考えによって変わる。だが、どんな方法論を選ぶのであれ、なるべく「思い込み」を避けるということは共通していると言えるだろう。詳しくは下記の『社会科学の考え方―認識論、リサーチ・デザイン、手法』といった本や、「社会調査」と名のつく本を参照してみてほしい。

大学3年生までには押さえておきたい社会科学の考え方ー「方法論=認識論+リサーチ・デザイン+手法」

社会調査法―量的研究と質的研究の違い

「社会学」と呼ばれる分野は、基本的に「社会問題」を調査・研究する学問だ1)「社会問題」という概念は、普通に書くとものすごく単純だが(例えば、ひきこもり問題)、実のところ、何を指すのか難しい。どうして「社会」の「問題」になるのか、言い換えれば、誰が「社会問題」をつくるのか。これが、社会学者自身が「社会問題」をつくっていく側面もある。つまり、必ずしも「世間」で明るみになっていないことを、「問題」として浮かび上がらせるのも社会学者の仕事でもあるとも言える。個人的には、こうした「問題に切り込んでいく」社会学の姿勢をとても魅力的に思う。時に、モノは言ってなんぼだ!

社会調査をするにはさまざまな手法があるが、「量的研究」と「質的研究」の二つがある。

大雑把に言ってしまえば、量的研究とは「数字を使う研究」のことで、質的研究とは「数字を使わない研究」のことをさす。最近では、「混合研究法」という両者を合わせて行う研究もある。

以下、岸政彦(編)(2016)『質的社会調査の方法 他者の合理性の理解社会学』を参考に、「量的研究」と「質的研究」の概要を紹介する。

量的研究―科学的にハッキリとした知識を得る調査法

量的研究は、研究者が設定した仮説に対し、データを用いて統計的に調査する。

統計調査をする際には、「『◯◯な◆ほど、△△でない』という仮説を統計的に捨てられるかどうか」ということを検証する。もう少し簡単に表現すると、「〇〇な◆ほど△△である(かどうか)」という問題を立てて、統計を用いて分析していく2)「『◯◯な◆ほど、△△でない』という仮説を統計的に捨てられるかどうか」を帰無仮説(null hypothesis)という。統計を用いる上での基本用語なので、量的研究をするならぜひ押さえておこう。

量的研究では、複雑な「社会」であろうと、適切なデータ収集をし、統計を使うことである程度「ハッキリとした知識」を得ることができる。もちろん、そのためには統計の知識が正確に求められるし、それを適切に分析する経験とスキルが必要だし、何よりも統計を行うためのデータを収集するためにも、膨大な資料を適切に整理して選定することが重要である。

質的研究―人々の経験・知識・概念を問う調査法

一方、質的研究では研究者が足を運んで現地で聞き取り調査・インタビュー、観察などを行う。言うなれば、研究者自身が「泥にまみれながら」調査する研究法だ。

質的研究を理解する上で重要なのが、「問いの立て方」である。先程の「量的研究」では、統計を用いた科学的な方法で「誰しもが納得できる形で成果を出す」という問いの立て方をするが、質的研究では必ずしも「誰もが納得できる」ような、つまり一般化できるような問いの立て方をしない。

僕は「自己責任論」を研究テーマにしているが、例えば、この研究をする上では「生活保護受給者の量的研究」という枠組みで捉えることもできるが、僕自身は「なぜ”自己責任”ということばで他者に対する非難が繰り返し行われるのか」ということを大きな問いとして持っている3)「自己責任論」は社会学の枠組みから、さまざまな角度で取り上げられている。岸(2016)も「(中略)無理解が生む「自己責任論」を解体することが、社会学の遠い目標のひとつである、考えることができます。」と語っている。つまり、語りを聞く、書くことで他者理解を促進し、安易に自業自得を指摘するような「自己責任論」を解体する一助になるということだと捉えている。一方、僕自身は、必ずしも「社会学」という枠組みから「自己責任論」の研究に取り組んでいるわけではない。限りなく近い領域だとは思うが、どちらかといえば「ディスコース」という概念を人類学的なまなざしから捉えていることに起因する。社会学的な資料の整理や調査をするのだが。今後、変わる可能性もあるが、このまなざしの相違はまた別記事にて。

もっと言えば、自己責任という「概念」や「知識」がコミュニケーションの中でどのように用いられるのか、「自己責任」ということばが特定の時代や社会の中で繰り返し用いられるメカニズムとはなにか、という問題意識を持っている。

上記のような問題意識は大きな社会の中でどのように「自己責任」が語られるか、というものだが、個々の具体的なケースに当たって(例えば、イスラム国日本人人質事件)調査しても、関係者にインタビューをしたとしても、個人個人によって「語られる/語られない」内容はバラバラなのである。

話者によって捉え方が違えば、用いられる言語によっても違うし、時代によっても同じ「自己責任」ということばでも<意味>は異なるだろう。

つまり、「特定の状況下におかれた特定の人々による経験・知識・概念についての解釈」を繰り返すのが質的研究なのだ。

人は「思い込み」を一般化しがちでそれに気をつけるべきと冒頭で述べたが、ある意味では、そうした「思い込み」を持つ人間だからこそ、違う価値観を持つ人間だからこそ、個々の人にはそれぞれ異なる経験を積み重ねてきた人生があるからこそ、質的研究で行われるような問いが生きてくるのである。

社会学の姿勢―社会理論の構築を目指して

量的研究と質的研究は、問いのスタイルは違うものの、必ずしも同じ研究者で「どちらかしか」使えないということはない。むしろ、両者の得意・不得意とする調査法を用いて、より質の高い研究成果を生み出していくと言えるだろう。

社会学は確かに、自然科学ほど厳密な研究成果とすることは難しいが、量的研究・質的研究を行う上で社会学が目指していることは、より質の高い研究を行うための方法論を精錬化させることである

ここでは、具体的な社会調査のための手法として知られる「量的研究」と「質的研究」を紹介したが、社会学にはさらに抽象度の高い、社会理論を構築するという目標も持っている。

実は、社会理論は今もなお、社会学の研究者によって皆が皆、納得できるようなものが提唱されているとは言い難いようだ。「理論不在の学問」とも言われることもある4)稲葉振一郎(2009)『社会学入門 <多元化する時代>をどう捉えるか。しかし、社会学はその広大なテーマを持てるがゆえに、さまざまな調査を柔軟に行える強みがあると言えるだろう。

僕はそんな社会学のある種の懐の深さに親しみを覚える。

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なんでもありな社会学?―社会理論の構築を目指して社会問題に切り込む

注釈・参考文献   [ + ]

1. 「社会問題」という概念は、普通に書くとものすごく単純だが(例えば、ひきこもり問題)、実のところ、何を指すのか難しい。どうして「社会」の「問題」になるのか、言い換えれば、誰が「社会問題」をつくるのか。これが、社会学者自身が「社会問題」をつくっていく側面もある。つまり、必ずしも「世間」で明るみになっていないことを、「問題」として浮かび上がらせるのも社会学者の仕事でもあるとも言える。個人的には、こうした「問題に切り込んでいく」社会学の姿勢をとても魅力的に思う。時に、モノは言ってなんぼだ!
2. 「『◯◯な◆ほど、△△でない』という仮説を統計的に捨てられるかどうか」を帰無仮説(null hypothesis)という。統計を用いる上での基本用語なので、量的研究をするならぜひ押さえておこう。
3. 「自己責任論」は社会学の枠組みから、さまざまな角度で取り上げられている。岸(2016)も「(中略)無理解が生む「自己責任論」を解体することが、社会学の遠い目標のひとつである、考えることができます。」と語っている。つまり、語りを聞く、書くことで他者理解を促進し、安易に自業自得を指摘するような「自己責任論」を解体する一助になるということだと捉えている。一方、僕自身は、必ずしも「社会学」という枠組みから「自己責任論」の研究に取り組んでいるわけではない。限りなく近い領域だとは思うが、どちらかといえば「ディスコース」という概念を人類学的なまなざしから捉えていることに起因する。社会学的な資料の整理や調査をするのだが。今後、変わる可能性もあるが、このまなざしの相違はまた別記事にて。
4. 稲葉振一郎(2009)『社会学入門 <多元化する時代>をどう捉えるか

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