「哲学」と聞いて、「うげっ、ソクラテスとかなんとかが頭をこねくり回しているあれでしょ?」と、大なり小なり、そのような反応をされてきたことがある。
もしくは、「人生哲学」などというくくりで「友達なんていなくたって生きていける」とか「死なない以外はかすり傷」といった人生訓から、「ひとは努力をする限り迷うものだ」(ゲーテ)といった名言を想像するかもしれない。
しかし、「本当にそうなのだろうか?」
「そもそも友達とはなんなのか?」
「死ぬ、生きるとは何をさすのだろうか?」
哲学とは何かとありきたりな疑問に応えるとするならば、それは徹底的に本当のところはどうなのだろうかと「問う」ことにこそある。
「生き甲斐がない人生に意味はない」「苦しくても生き抜くべき」「義のためには死もいとわない」といったさまざまな考え方にぶつかり「それにしても本当はどうなっているのか」と気になりはじめたとき哲学ははじまるのだった。「本当はどうなっているのか」と突き詰めていけばいくほど、さまざまな問題が枝分かれして生じてくる。考えつめる過程で、ひとつの結果がえられたかに見えても、新たな疑問や状況にぶつかれば、はじめから考え直さなければならない。哲学とは「哲学する」という動詞でよぶしかない、こうした状態のことである。
上記は貫成人(2004)『哲学マップ』の冒頭を引用したものだが、まさしく哲学とは「哲学する」ということでしか表現することしかできない。
つまり、過去に「アリストテレスは◯◯といった。」ということは単なる「知識」でしかなく、それがその発言をした人にとっての「哲学する」ということにはならないということだ。
言うなれば、「疑う」ところから哲学ははじまる。
「本当のところどうなのか?」ということを自分が納得できるところまで、他人にも同じように説得的に論じれるようになるまで、徹底的に疑い”続ける”ことにこそ、哲学は宿ると言えるだろう。
結局のところ、「自分にとって何が最も切実な”問い”なのか」ということをつかむことなしに、「哲学とはなにか」などということに応えることはできない。
であるから「哲学する」ということは、徹底的に「問う」ということであるし、さらに言えばその問いを持つ「自分と向き合う」ことを否が応でも必要になる。
単に「◯◯は△△だ」と得意気に語ることは哲学ではないのだ。
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