さまざまな「ディスコース」の雑記的まとめ

「ディスコース」という概念は本当に厄介で、非常に捉えがたい。今回、暫定的に整理ができてきたので少しばかり書き記す。

主に言及するのは「言語人類学」「批判的談話研究」「談話分析」「言説分析」である。

言語人類学

言語人類学における「ディスコース」は主に「言語そのものとそれを生み出す過程を文化が映し出された鏡」として捉えている。つまり、あくまで中心にあるのは「言語コミュニケーション」である。

現在、言語人類学の学派は主に二つ、「コミュニケーションの民族誌(ディスコース中心の文化論)」と「社会記号論」がある。「言語コミュニケーション」という広い射程の概念を含み込んでいるため、研究者の関心や問題意識に応じて、繋がっている隣接分野もある。例えば、ジェスチャーやステレオタイプに関心を持つ者は認知系分野と接点を強く持っている。

共通するスタンスとしては、あくまでもコミュニケーションとは「今ここ」を起点に動的に形成されていくということだ。テクストをなんらかの意味を持つものとして解釈するためにはコンテクストが欠かせない。コンテクストは、ことばのやりとりに限らず、無限に広がりうるものだ。けれど、ことばのやりとりが交わされる中で一定の「意味」あるものとして制約され、それによって解釈が可能になるのはなんらかの前提があるからである。つまり、多様なコンテクストからテクストに取り込まれるものによって、意味が生成されていく。

シンプルにまとめると、コミュニケーションを介して、テクスト化されると同時にコンテクスト化される、そのプロセスを対象に文化記述・分析をするのが言語人類学だ。「コンテクスト」を広く受け入れ、かつ出来事の中で制約され解釈可能になる「意味」を対象とした研究であることから、権力・ジェンダー・アイデンティティ・差別を研究の射程に含んでいる。

言語人類学は、規則性が強く体系づけられた「言語」とそれを偶発的な出来事の中で解釈する「人類学」の両者を包含するような学問である。私見だと、「コミュニケーションの民族誌(ディスコース中心の文化論)」の系譜を受け継ぐのは「言語人類学」、記号論の系譜を強く受け継ぐのは「人類言語学」とも言えると思う。前者は、人と人による接触かつ心理的なものが合わさって「ディスコース」を社会構成主義的(解釈主義的)に捉え、後者は、前者以上に「今ここ」の出来事の中に生まれる言語(記号体系)を社会構成主義的(形式主義的)に捉える傾向にある、かと思われる。

批判的談話研究

批判的談話研究(Critical Discourse Studies: CDS)における「談話」は、論者の主要なアプローチによってかなり異なる。ミシェル・フーコー、ハーバーマス、ラクラウ&ムフ、ルーマン等が引用されつつも、統一されたディスコース理論があるわけではない。共通するのはディスコースを「社会的実践」としており、あくまでも社会文化的なコンテクストでことばは紡がれ、相互作用を与えるものという理解だ。

さらに共通して持つのが「社会的な抑圧や不平等」をもたらすものに対する批判的姿勢である。むしろ、この「姿勢」こそがCDSをCDSたらしめているもので、その分析に向けた多様な研究アプローチが採用されている。

弁証法的アプローチ

ノーマン・フェアクラフが立脚するのが弁証法的アプローチだ。彼の理論では、ポストマルクス主義者であるラクラウ&ムフの「ディスコース」観に基づいているものの、言語内分析にはマイケル・ハリデーの機能文法、言語外分析にはバフチンの「声」などを援用している。

とりわけ、出来事と社会構造との間に社会的実践を位置づけており、「ジャンル(行為)」「アイデンティフィケーション(スタイル)」「ディスコース群(表象)」の弁証法的関係からディスコースが構築されていると捉える。

ここでいう弁証法的関係とは、ラクラウ&ムフのディスコース理論に依拠しているもので、少しばかり特殊なので注意。

いかなる社会的実践も、社会的要素の「節合」として捉えるFairclough の理論は、ラクラウ&ムフ(2000:169-170)の“moment(節合)”と“articulation(契機)”に寄っている。要素がただ単に分散した状態ではディスコースの空間が構築されていないが、要素が契機として活性的に結びついていることを節合的実践と呼び、これを言説(ディスコース)と呼ぶことで Fairclough が示す“discourse as social practice”の意味が理解される[中西、2008:36]。

とりわけ、「後期資本主義」という社会制度とそれに付随した「新自由主義イデオロギー」を主な分析対象としているため、社会構造というマクロな領域を仮定しながら批判的なディスコース分析を行なっている。

社会認知アプローチ

ヴァンデイクが行うのが、談話-認知-社会の関係を扱う社会認知アプローチである。社会認知アプローチでは、いわゆる行動主義的・経験主義的な「相互行為」に限局化した研究に対して批判的な姿勢を持つ。というのも、ディスコースの中で「社会的抑圧や不平等」をもたらすのは、知識・認識(ステレオタイプ)やそれに基づいたスタンスであるからだ。つまり、「ディスコース」に表出している批判すべきイデオロギーは「行為」ではなく「考えていること」だと主張する。

フェアクラフが社会構造やその中で転送されるイデオロギーを動的なディスコースとして捉える一方で、ヴァンデイクはディスコースをあくまで言語学的な分析対象として捉えている。「CDSには難解な用語は不要だ」という発言は、CDSの分析を広く理解してもらい、できることなら活用してもらうことを意図した発言とされていることからも、難解で理解可能性を狭めるディスコース観ではないことがわかる。

装置分析アプローチ

明示的にミシェル・フーコーの「ディスコース」観を援用するのがイェーガーの装置分析アプローチだ。フーコーは「言説(ディスクール)」の名を轟かせたフランスの哲学者である。彼の「言説」の概念は難解であるが、シンプルにまとめてしまえば「知/権力」の生成とそれに影響を受ける「主体」について批判的に考え続けた哲学者だと言える。

例えば、フーコーは歴史的な資料を紐解きながら各種学問の発展とともにいかに「人間」が誕生したのかを論じている。ざっくり言ってしまうと、フーコーは「言表(エノンセ)」とそれが束になった「言説(ディスクール)」の中で「真理」が構築されていくと捉えた哲学者であり、その根拠を一定の歴史的にまとまった資料に求めた。ゆえに、「図書館(アルシーブ)」を一つのモチーフに、「言説の編成過程」を哲学的な認識の土台に置くため、確定した「真理」を拒否する。とすれば、そうした「知」を決定づけるには何かしらの「権力」が関わっている。さらに、そうした知を生み出し、生きることに欠かせなくなった空間(例:学校)などを「生権力」とした。つまり、「知/権力」が生み出される過程を歴史的に紐解き、それらから距離を取ることが可能な「主体」を問いかけていったのがフーコーである。(フーコーへの理解はさまざまにされているので、きちんとした論述をした書籍を読むことをおすすめ)

イェーガーは、そうしたフーコーのアプローチを採用しながら、自身の研究に援用している。とりわけ、イェーガーは談話が連続的に紡がれるセクター(例:新聞)を選ぶ必要を説く。これはフーコーが「言説」が積み重ねられる「図書館」をモチーフにしたことからも明らかだろう。

社会行為アプローチ

ヴァン・レーヴェンはある固有の出来事の中でなされる社会行為に着目したアプローチをとる。フーコーやヴァン・デイクの影響を受けつつ、バーンステインの「再コンテクスト化」の概念を引き合いにしながら、出来事の中で行われる社会的行為がディスコースとして構築されるという視点を持つ。社会的行為の詳細な類型化とそれらがどのように組み合わさるかを分析の基軸に持つ。

歴史談話アプローチ

ウォダックは歴史的かつ複眼的にディスコースを分析する歴史談話アプローチをとる。歴史的な変遷を追うのは装置分析アプローチをとるイェーガーと共通するが、ウォダックらの歴史談話アプローチを特徴づけるのは集団的な手法で、理論・手法・分析・解釈を詳細化していくことにある。

ある意味で、一般的に用いられる「言説」の意味に近く、社会的実践として影響をもたらし、一定のイデオロギー性を持つ意味を含むため論争的な対象になっていることとして捉えている。その上で、一定の問題を含むディスコースならびにトピックを選択し、実際になされるテクストとテクストの関係性(間テクスト性)、あるテクストが構築する群としてのディスコースとディスコースの関係性(間ディスコース性)を詳述していく。

談話分析

言語学的談話分析

ここでいう言語学的というのは二つの意味がある。一つは「語用論的」、もう一つは「社会言語学的」である。言語学的談話分析では、上述してきた研究群とは異なり、あくまで言語学のパラダイムとして「ことば」を捉える。つまり、ことばを社会文化的なコンテクストで起こり、かつそれゆえに権力やアイデンティティをめぐる広い意味での「社会的実践」としては捉えない。

例えば、泉子・K・メイナード(1997)『談話分析の可能性:理論・方法・日本語の表現性』では、

実際に使われる言語表現で、原則としてその単位を問わない。単語一語でも談話と言えるが実際には複数の文からなっていることが多く、何らかのまとまりのある意味を伝える言語行動の断片

また、スタッブス(1989)『談話分析:自然言語の社会言語学的分析』では下記のように定義される。

「談話分析」(discourse analysis)という用語は極めてあいまいである。本書では、私はこの用語 を主に「自然に生じた、連続体をなす音声言語及び書記言語による談話の分析」の意味に用いることにする。大まかに言って、それは文(sentence)あるいは節(clause)の上のランクに位置する言語構造の研究、従って、会話における言葉の交換とか書かれたテクストといった、より大きな言語単位の研究を指す。それゆえ、談話分析は社会的文脈における言語使用、特に話し手間の相互作用(interaction)、即ち、対話(dialogue)をも扱う。

ディスコース心理学

ディスコース心理学はその名が指し示すように、心理学から派生した分野である。基本的に心理学は科学的なアプローチを採用するのが主流であり、「頭の中」でどのように心理を形成しているかを研究してきた。一方、ディスコース心理学ではそれに異を唱え、人と人のコミュニケーションを介した相互作用の中で心理が構成されると捉える。

会話分析

会話分析は社会学理論から派生して登場した学問分野だ。社会学は「社会の秩序・逸脱」を主な問いに持つ。社会は人と人との関係によって生まれるものであるならば、「会話」というやりとりはまさにそうした社会的な秩序が形成されている原点と捉えられもするだろう。

そこで、会話分析では、言語に形式的な規則性があるように、会話の中でなされるやりとりにも一定の規則性があるとし、会話を詳細に分析しながらそれらのプロセスを研究する。

言説分析

フーコー的言説分析

CDSの装置分析アプローチにてやや詳細に説明したのがミシェル・フーコーの言説分析である。フーコーの言説分析はさまざまな形で援用されており、政治学や社会学、教育学でも広く扱われている。

フーコーの「知/権力」の分析は「図書館」をモチーフとしているように、一定の範囲内で連続的に(それでいて非連続的に意味が変容する)扱える資料に限定される傾向にある。

例えば、歴史社会学的手法としての言説分析では、ある資料の中で特徴的なある言説の時間的推移を切り口に、ある主体や対象に対して「語られていること/語られていないこと」や言説同士の力学を分析していく。

キットラー的言説分析

フーコーの言説分析に対して批判的な言及をした一人として知られるのがキットラーである。フーコーの言説分析では「図書館」がモチーフとされているように、ある特定の「メディア」、つまり「文字を書き込まれた紙」に依拠している(絵画をはじめとした視覚についてもフーコーは論述している)。しかし、キットラーはまさにその点を切り口に自身のメディア論を展開する。というのも、1900年代には音や映像の保管が可能になった。キットラーは「1800年の書き込みシステム」と「1900年の書き込みシステム」は明らかにメディア技術の発達とともに変容していることから、フーコーが想定したような「図書館」は成り立たないことを示していった。

つまり、キットラーはフーコー的な言説分析を引き継ぎながらも、メディア技術と人間の関係性へと議論を拡張させたとも言える。こうしたキットラーの指摘は、「2000年の書き込みシステム」をどのように捉えるかといった議論へと接続される。キットラーは自身の見地からフーコーを批判したが、フーコーの見立てた言説の概念は今でも様々に援用されているように、失効したわけではなく、むしろ現代版にアップデートされている。例えば、Googleの検索システムやTwitterのタイムラインは一種のデータの「図書館」である。単にメディアが発展したからといって、安易な批判で終わるのではなく、研究対象に応じて、どのように「読み替え」をできるのかが問われていると言えよう。

おわりに

あくまで雑記的に、ざっくばらんに書き出してみようという不真面目な態度から記事を書き始めたため、例をちゃんと出したり、出さなかったりで中途半端な内容になってしまったと思う。

ただ、「コミュニケーション」が研究として何を指しているかが分かりにくいというか分からないように、「ディスコース」はもっと分かりにくいし、かつ多様に用いられているそれっぽい専門用語である。

だからこそ、どれかを読んでみても「よく分からない」ため、ある程度、まとめて整理すると見えてくるかなと思い、本当にザッと書いてみた。個人的に「言語」と「メディア」と「社会文化」を紡ぐ界面が「ディスコース」だと思っている。その点、パース記号論とフーコーとキットラーの言説分析を基軸に再考することは、今の間メディア社会を考えるヒントになると思う。この辺、もう少し言語化していきたい。

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