更新:教養系ラジオStudy Talk vol.1~vol.3―うなずき合いと訣れて語り合いを紡ぐ

学問を学ぶとはどういうことなのか?―人文社会科学を研究する意義

最初にハッキリ言っておきたい、僕は学問なんてクソ食らえと思っていた!

「いやいや、こんなサイトをわざわざつくって何言ってるの?」

とか

「”学問”を傘にして、見栄を張りたいんじゃないの?」

とか言われてしまうかもしれない。

が、「学問なんてクソ食らえ」と以前は思っていたのは事実だし、そこから「いや、やっぱり学問は大事だ」と過去の自分が思い至ったのは(そして今も)確かに半分は見栄である。しかし、そうした経緯があったからこそ、敢えて「学問」に対する思い入れが深いし、「学問なんて価値がない」と言われる理由も身体に染み付いているからこそ、余計に変わっていった経験をした”自分”だからこそ、伝えられることもあるのではと考えている。

今、「コミュニケーション」を研究分野に選んでいるのも、そんな自分の経験があるからこそ、「学問」という営みもその「価値」というよりも、それぞれの人や社会集団の「情動/関心/利害」によって左右されてしまうことを、誰よりも実感しているからだ。だから僕は「コミュニケーション」、いや、「ディスコース」というものを研究分野に選んだのである。

この『Discourse Guides』では、広く人文社会科学の領域で語られていることを紹介・解説していく。本当に基礎的なところから、できれば大学3・4年生、大学院生のレベルの内容へと段階的にステップを踏んで理解できるものにしていきたいと思っている。この記事では、そんなサイトを見ていってもらう前に、筆者の心からの思いと同時に、「学問ってなんなのか」ということを簡単に語る。

めんどくさいかもしれないが、「めんどくさい」のが学問だ。

そして、そんな「めんどくささ」を、時に少し辛抱しながらも、思いっきり楽しんだり、思いっきり苦しんだりを繰り返すのが、「学問をする」ということなのだと思う。

学問:問いを学ぶ→問いを作る→問いを解く

「学問」とは、「問いを学ぶ」ところからはじまり「問いを作る」ことを思いつき、「問いを解く」ことをしながらも、また「問いを学ぶ」ということをする営みのことだ。

例えば、「人間とは何か」みたいなありきたりな問いは古来からずっと繰り返されてきた。つまり、研究の蓄積として、いろんな「問い」と「答え」のセットがすでにあるということだ。

つまり、まずはこれまでなされてきた「問いを学ぶ」ことが重要になる。けれど、「人間とは何か」とか「◯◯とは何か」みたいなシンプルな問いはそのシンプルさ故に、実はとても難しい。だから、あれこれの方法を使って「問いを作る」ことをする。ある人は「哲学的に深く深く思索を繰り返す」、ある人は「数学・統計を駆使して心理実験を繰り返す」、ある人は「見知らぬ民族のもとで観察し解釈する」。

いろんな方法論がある中で、これまでの問いを学びつつ、新たな「問いを作る」中で自分なりの方法論を磨く。そして、磨いた方法論を駆使して「問いを解く」。その繰り返しをするのが学問だ。そう、”繰り返す”のだ!

研究者同士で「コミュニケーション」を紡いで。

巨人の肩の上に立つ

「問いを学ぶ→問いを作る→問いを解く」ということを繰り返すのが研究者なわけだが、そんな研究を”成果”として評価する必要がある。そうでないと、何をもって”新しい”成果なのか分からないからだ。すでに分かっていることは単なる知識の整理や確認で、それは研究成果とは基本的には呼ばれない。

そうして蓄積された「研究成果」が学問の歴史として刻まれて今に続いている。そうしたことを表現することばとして「巨人の肩の上に立つ」という、かのアイザック・ニュートンが用いたことばがある。論文を検索する「Gogle Scholar」でトップに表記されていることにも、そのことばの重要さを象徴しているだろう。

「今」当たり前のようになされていることも、過去の先駆者がいて、成り立っているのだ。しかし、いわゆる「科学」として研究されてきたことは、過去の蓄積の上で徐々に「真理」へと近づいていると言えるわけだが、「人文社会”科学”」と言われるものは、そうは簡単にいかないのである。

人文社会科学とは何か―「人間・社会・文化」を問うということ

「科学」と言われる営みは、”客観的”で”正しい”と考えられているのは、それはおそらく<人間>を主な対象にしているわけではないことにあるだろう。言っておきたいが、僕は「科学」はとても面白いと思っているし(中学生のころに量子力学にはまった!)、科学が”正しくない”などとは微塵も思っていない。

ここで言いたいのは、「物質」としての「ヒト」ではなく、まさに精神を持った<人間>を研究の対象にしたとき、そう簡単にはすべてがすべて、「科学」という営みで説明しきれないということなのだ。

「人文科学」「社会科学」というよりも「人文学」をここでは指している。(ちなみにいうと、こうしためんどくさいことばの定義をきちんと示していくことが学問的な営みだと言える。ことばが何を意味するのか、明確にされてなければ、より正確なコミュニケーションにならないからである。)

確かに、現代社会においてはコンピューター技術を駆使して、限りなく「人間」や「社会」を数値として置き換えて、分析し、「科学的に」研究することができる。

しかし、どんなに数値として置き換えて研究してみたところで、「人間・社会・文化」は自然科学のように実験できない。つまり、いつもいつも、同じ条件を設定することはできないのだ。なぜなら常に歴史的な流れの中で、変わっていくものであるし、何よりも「研究者」自身が「人間」である。研究者も人間で、対象も人間であれば、どうしてもそこには一定のバイアスがかかってしまうというわけだ。(逆に言えば、なるべくそのバイアスを取り除くことが人文社会科学における方法論の刷新ともいえる。)

人文社会科学を学ぶ意義―学問をなめてはいけない

ものすごくざっくり言ってしまえば、人文社会科学を学ぶということ、さらに学ぶだけではなく研究するということは、常に「自分自身」と向き合い続けるということなのである。かっこよく言えば、「自分という存在を歴史化させ続ける」ということだ。

これは、「コミュニケーション」を学ぶ者だからこその考えであることを否定できない。いわゆる、「科学」を重視する人には、安易に歴史に置き換えずに、粘り強く客観的なものにすることを主張する人もいるだろう。僕はその意見は極まっとうなものだと思う。だが、やはり、それでも「研究者」自身の「問い」次第で、その強弱は変わるし、何をもって「研究成果」とするかも変わるのだ。

つまり、人文社会科学というものを通して「コミュニケーション」をするということは、そうした「可能性」を持ちつつも、「不可能性」に時に苛まされ、それでもやっぱり「可能性」を追求するということにある。

ちょっとわかりにくいかもしれないが、このサイトの到るところで、そんな「可能性の追求」について書き記してみたいと思う。

最後に、こうしたサイトを運営するということ自体が一種のおこがましさの象徴と、研究者の方々に捉えられる可能性があることについて述べたい。僕はそれを否定しない。

だが、決して学問という営みを僕は「なめてはいない」し、「なめてはいけない」と考えている。

何度もいうように、歴史的に積み重ねてきたプロセスそのものを”続ける”ということが大事だし、そこには人間の「可能性」と「不可能性」を行き来しながらも、少しずつ「限界をこじ開ける」ということ、それでも時にやっぱり「限界を知る」ということを思い返すために人文社会科学はあると思うのだ。

もちろん、そのプロセスは今、かなりの程度に洗練度が高まっていると言っていいだろう。このサイトで紹介する内容も、幅広く「コミュニケーション」を扱っている以上は至らない点があるはずだ。どうせ書くなら「論文」を書けばいい、それはその通りだと思う。

だが、それでもやはり「人文社会科学」という分野で<人間>を研究の対象にしているということ、自分自身がかつてその意義を認めていなかったことを考えると、今の高度情報社会でなんでもかんでも個人の好きなものを提供してくれる世界に向かっているからこそ、改めて「人文社会科学とはなんなのか」「コミュニケーションを研究するとはどういうことなのか」を示す必要があると思うのだ。

あまりにも当たり前にありすぎる、この日常生活で紡がれる「コミュニケーション」というものを切り口に、そんな当たり前をぶち壊すことを目標に書き綴ってみようと思う。どうか、そんなコミュニケーションの連鎖が誰かにとっての希望となりますように。

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