社会言語科学会、第1回スチューデント・ワークショップでの発表内容と振り返り

2019年9月15日(日)、桜美林大学新宿キャンパスで第1回社会言語科学会シンポジウムが開かれました。今回、そのシンポジウム前に行われたスチューデント・ワークショップ(以下、WS)で発表してきたので、その内容と振り返りを簡単にまとめます。

WSーディスコースから捉える『自己の位置づけ』-4つのフィールドから-

WS参加の経緯と概要

今回、筑波大学大学院に所属している井出ゼミの一部メンバー(4名)でWSに出ることになりました。経緯としては、前年度に行われた第44回の大会(会場が筑波大学)で、とある方から「WSに筑波大からぜひ応募してください」と井出先生に話があったことからでした。最初は「言語イデオロギー」をテーマにやろうかという話を(主に僕から)していたのですが、メンバーの研究テーマとの相性から話し合いの結果、「自己」をテーマにすることに。打ち合わせは5, 6回(それぞれ1〜2時間)ほどやったかと思います。

そこでテーマ名が、「ディスコースから捉える『自己の位置づけ』-4つのフィールドから-」と決まっていきました。以下、概要。

本ワークショップは、参与者を取り巻く空間的・時間的な相互作用としてのディスコースを中心に「自己の位置づけ(=アイデンティフィケーション)」の実践を捉えることを目指す。「自己」をめぐる古典的な議論を言語人類学の視座から捉え直す。発表者はそれぞれ異なる4つのフィールドのディスコース―聖書テクスト(「hinnēnî」)からみるユダヤ的自己・島の地域コミュニティにおけるあいさつ行動・留学生グループの逸脱的日本語使用による冗談実践・「自己責任」をめぐるTwitter上の議論―から社会文化のコンテクストとともに構築される多様な「自己」の姿を提示する。様々なディスコースに埋め込まれ/創り出される「自己」を多角的に論じ、フィールドにおいてコミュニケーションが創る自己観を捉えることの意義を提起したい。

WSは2時間だったので、発表時間は一人20分(計:80分)、ディスカッション30分。発表者の入れ替わりに時間がかかるのでこれでだいたい2時間という計算。今回、発表の時間がほぼオーバーすることなく行えたので、予定通りに進めることができました。聞きにきてくださった方、ありがとうございました。

全体の振り返り

WSを行なったのが初めて(参加もなし)で、どういったかたちにすればいいかわからないながら準備を進めたという感じです。一人で発表に向けた準備をするのとは違い、メンバーと合わせて内容を詰めていくのはなかなか大変だったのですが、良い経験になりました。

特に今回のテーマは「ユダヤ的自己」「地域コミュニティのあいさつ行動」「留学生グループ」「自己責任をめぐるTwitterの炎上」とそれぞれバラバラだったこともあり、すり合わせに時間がかかりました。

対象とする「フィールド」やそれぞれの分析のスタンスも違うのも、それぞれが「気になる部分は気になる」という感じです。司会者になってもらった井出先生から「それぞれのフィールドと分析対象の面白さをしっかり伝えられればいい」とアドバイスをもらっていた中で、結果的には本番でそれぞれの味を出せたんじゃないかと思います。

発表ーTwitterを媒介に「感染」するイデオロギー 「過労死は自己責任」ディスコースを中心に

僕の発表タイトルがこの「Twitterを媒介に「感染」するイデオロギー 「過労死は自己責任」ディスコースを中心に」です。下記が発表スライド。

最初にきちんと説明するというスタンスで作ったスライドだと50枚弱と20分ではとても収まらない内容になってしまったので、上記の本番でのスライドはだいぶ圧縮されているスライドになります。下記が発表のアウトライン。

  1. デジタルフィールドとしての「Twitter」
    1. Twitterのタイムライン
    2. TWITTERのアルゴリズムで計測される「評判」
    3. パソコン・スマホ・タブレットを介したメディアへの接触
  2. メディア環境との接触で喚起される「情動」
    1. パース記号論
    2. 記号の正逆ピラミッド
    3. 情動的解釈項
    4. 情動的コミュニケーションと「感染」
    5. 「同一化」と「感染」の相違
    6. ソーシャルメディア時代の「感染」
  3. 「過労死は自己責任」発言の炎上
    1. 「過労死は自己責任」ツイート分析1
    2. 「過労死は自己責任」ツイート分析2
    3. 田端氏と嶋崎氏(弁護士)によるディスカッション
    4. 「自己責任」の解釈を枠付けるイデオロギー
    5. TL上で形成される無標な「規範」の差異
  4. 田端氏の個人主義ディスコース
    1. 「過労死は自己責任」炎上が生み出す「感染」
    2. Twitterの炎上図
  5. 参考文献

記号の正逆ピラミッド

言語人類学の分野ではこれまで「メディア環境」そのものを「フィールド」とする事例はあまりありませんでした。もちろん、ネット上のコミュニケーションや炎上を扱った研究はありますが(例:Elaine W. Chun (2016) The Meaning of Ching-Chong Language, Racism, and Response in New Media)、分析しているのはあくまでもメディア上の「言語コミュニケーション」です。

今回、フィールドそのものである「Twitter」を例に、デジタルコミュニケーションが「人々の評価」を得て「リアル」の職とも結びつくことを提示したいと考え、石田英敬 (2019) 『新記号論 脳とメディアが出会うとき』で扱われている記号の正逆ピラミッドを援用しました。(その他の参考:石田英敬 (2019) 「情報記号論」講義 総括と展望

石田・東 (2019: 232)『新記号論 脳とメディアが出会うとき』を参考に筆者が作成

記号論系の言語人類学では徹底的に「『今ここ(オリゴ)』に根ざした出来事中心の社会的な言語行為」が理論化されています。ただ、それが今の高度化された情報メディア環境に対応しているかと言えば、必ずしもそうではないというのが僕の見立てです。記号の正逆ピラミッドの概念図で、これまで主にリアルフィールドの中で研究を蓄積してきた言語人類学の知見を高度に発達した情報メディア環境にも適応できる枠組みになるのではないかと考えた次第です。

Twitterフィールドが喚起する情動

Twitterで目まぐるしく飛び交う情報は、「いいね」や「リツイート」をはじめとしたインタラクションによって計測され、「フォローワー数」などそのユーザーの価値が「評価」される仕組みになっています。また、「最大140文字」しか文字情報としてつぶやけないことや、多様なユーザーが一緒くたな「アカウント」としてTwitter空間上に共在していることによって、それぞれのコミュニケーションを行う上での姿勢が異なり、まともな「議論」をする場には適していないと考えています。

情報自体の内在的価値の評価というよりも、FacebookにせよTwitterにせよソーシャルメディアのプラットフォームのユーザ相互間の共感(いいね!やリツイート)の反映にコミュニケーションの価値基軸が映っている。情緒的あるいは情動的コミュニケーションが基調となることをアルゴリズムのタイプから説明している

石田・東 (2019: 418-419)『新記号論 脳とメディアが出会うとき』

そこで、今回はTwitterにおける主導的なモードとも言える「情動的コミュニケーション」が「過労死は自己責任」発言の炎上においてどのように表出していたかについてまとめました。ただ、時間的な都合や僕自身の能力不足・理解不足により上手くまとめきれているわけではありません。今回はあくまで「リアルフィールド」と「デジタルフィールド」をめぐる理論的な試論として発表しました。

「情動的コミュニケーション」と「感染」

パース記号論では、「解釈項」があって初めて認識可能な記号が存在すると考えられています。解釈項のうち、最も原初的な領域ではたらくのが「情動的解釈項(直接的解釈項とも呼ばれる)」です。

Twitterでは、「140文字以内のツイート」という情報が無数に展開されています。そうした「ツイート」に接触することそのものが先ほどの原初的な情動的解釈項に関わる「情動」を喚起するわけです。というわけで、今回、暫定的に「情動的コミュニケーション」と「感染」を定義しました。

情動的コミュニケーション:「驚き(例:新しいものとの出会いや発見/秩序からの逸脱)」により身体への原初的反応を喚起するコミュニケーション
感染:情動的コミュニケーションによるミクロ知覚(=情動)の伝播とその断片的な痕跡

ここから、情動的コミュニケーションによる感染とは「人々が身体的に接触するインターフェイス上(対面接触/デジタルメディア接触)で情動的な感情が主導的に表出・喚起され、参与者の志向性が「感染」していく」、つまり意識化以前の「感じ(feelinng)」の伝播、蓄積となります。

分析内容(割愛)とまとめ

書き始めたら長くなってしまったので分析内容は割愛。僕の主張についてシンプルにまとめれば、Twitterで議論をしても各々の価値観や意見に『沿った』ものがそれぞれのタイムライン上で強化されてしまうということです。

『相互行為におけるディスコーダンス 言語人類学からみた不一致・不調和・葛藤』に収録されている野澤俊介 (2018) 「「荒らし」と相互忘却」でも言及されているように、こうしたディスコーダンス(不調和・不一致を指すメタ概念)を増幅する社会記号過程を生み出し続けるメディア環境では、単に「対話」を目指すだけではどうしようもない側面があります。

ですから「沈黙」「無知」「忘却」を人間が行う積極的な側面も「コミュニケーション」として捉えることもまた重要ではないかと考えています。

完璧な「コミュニケーション」というものはないからこそ、その「コミュニケーション」が行われる「条件」を考えるべきだと思うわけです。「条件」とは、コミュニケーションが交わされるのはどのような環境なのか、どのような状況なのか、どのような「価値づけ」があるのかといったことです。これらを「練り合わせる」「擦り合わせる」という「批判」があると考えています。

おわりに

今回の記事にもほとんど書かなかった「自己責任」をめぐるやりとりの分析を最初はメインで扱っていましたが、気づけば「Twitter」という「フィールド」についての話がメインとなってしまいました。

言語人類学の分野でデジタルメディア環境のコミュニケーションを扱っている事例があまり多くないのは、これまで主流だったエスノグラフィックな調査がしにくいことや複雑なコミュニケーションの様態を扱うのに比較的丁寧な分析を行う言語人類学のスタンスと合わないというのもあったのではないかと思います。

今現在は、いわゆる日本社会で言及される「自己責任論」を中心に研究を進めていますが、もっとしっかりメディア・コミュニケーションについて分析をまとめられたらと思います。

発表における参考文献リンク

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