現代の潮流―言語論的転回からメディア論的転回へ

メディア論という時に大きく分けて二つの対象を捉えて考えることができる。

一つは新聞やテレビといった物としてのメディアと、物だけではなく「媒介」としてのメディアをである。

本記事では、具体的なメディアを対象とするのではなく、哲学・思想的であり抽象的なメディアのあり方、特に20世紀から21世紀にかけて起きた学問的な転回である、言語論的転回からメディア論的転回について解説しよう。

転回の系譜:認識→言語→メディア

概略だけ抑えておいてもらいたいのが、認識論的転回→言語論的転回→メディア論的転回という流れだ。

これらを理解するのにはかなり抽象的で哲学的な議論にまで踏み込まないといけないのでここでは詳しく説明しない。

が、人文社会科学を学ぶ者であるならば、これらの転回が起きてきたことはよく頭の中に入れておくべきだろう

簡単に説明しよう!

認識論的転回とは17世紀に起きた哲学の潮流で、デカルトを始めとして「私とは何か?」といった問いから客観や主観を巡る「意識」に着目した哲学が登場してきた。

そこから、20世紀後半になるとリチャード・ローティ著作の『言語論的転回』(1967年)から新たな転換点として言語論的転回という概念が登場した。これは、狭義の意味では英米で発展している分析哲学を指すものであるが、次第に20世紀全体の哲学を指す言葉として普及していった。

例えば、現代言語学の祖と言われるソシュールやヤコブソンから始まった構造主義、フーコーやデリダといったフランス思想からもたらされたポスト構造主義、ガダマーの解釈学、ハーバーマスが提唱するコミュニケーション理論などがそうである。

しかし、「アプリオリ(前提)としての認識」として「アプリオリとしての言語」が見直されたが、その流れと同じ論理として「アプリオリとしてのメディア」という概念が徐々に優勢になっていったのが、21世紀における哲学的な潮流の一つである。

メディア論的転回とは何か?

言語を認識の前提としてとらえるように、メディアを言語の前提としてとらえることができる。認識や言語を一つのメディアとして、メディア論へと引き戻すのである。

わたしたちは、光というメディアで見て、音というメディアで聞くように、言語というメディアでコミュニケートしている。メディアを通してのみ、わたしたちは他者に触れあい、世界を経験することができるからである。

メディア論―現代ドイツにおける知のパラダイム・シフト』P8,9

人は身体器官から発せられた「音」によってことばを生み出し、それらは「文字」というメディアが開発されたことによって書物を生み出した。そして、初めは手書きだった書物も印刷革命を経ることによって大量生産することが可能になり、「知」を手に入れることができる者は一部のエリートに留まらず増大していった。

そして、今やインターネットを始めとしたIT技術の革新が続く世の中なのである。今後、人工知能やブロックチェーン技術による仮想通貨の発明、さらにはバイオテクノロジーの進展などによって、さらなる革新が続いていく、というのがメディア論的転回の流れである。

これまでの人文社会科学においては、マルクス主義を始めとした啓蒙思想を押し出した、「解放」と言いつつも一意的な抑圧の再生産が行われてきた側面があることは否定できないだろう。ポストモダン思想の中で相対主義的でアイロニカルな言説が1980年代から優勢ではあったが、徐々にそれが衰退していく中でメディア論が脚光を浴びてきた。

こうした流れを象徴するかのように、「映像の世紀から魔法の世紀へ」というメディア革新と資本主義を前提とし、それを推し進める者も登場してきている1)『魔法の世紀』を著作した落合陽一助教が推し進める世界観では、現実とヴァーチャルの区別がつかないような「デジタルネイチャー」を目指している。が、この世界観は技術革新をもたらすための資本主義的社会を前提としており、人工知能を始めとしたテクノロジーの発展によって、いわゆる中間層の仕事はなくなうことを示唆しており、「魔法の世紀は裏を返せば奴隷の世紀」でもあると言及している。

CDSとメディア論的転回

このメディア論的転回というものは、非常に批判的談話研究(Critical Discourse Studies:CDS)においても関連する概念だ。

というのも、メディア論的転回が進んでいくに当たり、もう少し細かな段階を説明すると言語論的転回→語用論的転回→メディオロジー的転回なのである。

ソシュールから始まる現代言語学では、言語学の中心的な命題は「言語の体系を如何に理解するか?」といったものに変わっていった。また、社会的・言語構造的な文脈を背景に実際に用いられるコミュニケーションの中での動的な言葉の用いられ方を分析しようとする「語用論的転回」が主張されていったが、そもそもそんなコミュニケーションをやり取りする物質的・技術的な媒介を問題とする「メディオロジー的転回」になっていったのだ。

CDSにおいては、基本的にはフランクフルト学派やハーバーマスといったコミュニケーション理論などを援用し発展した啓蒙的学問分野である。が、メディオロジー的転回においては、ポストモダンという「真理なるものはない」という世界観に基いて批判をされている。実際、ドイツにおいてはハーバーマスとスローターダイクというメディア論を支持する者での論争も巻き起こった

まとめ

ポストモダン思想と言語論的転回からメディア論的転回という流れは人文社会科学を学ぶ者にとって切っても切り離せない問題を提起している。

確かにメディア・技術の発展は凄まじく、もはや人の発展の追随を許していないようだ。

資本主義的社会においてはそういった技術に投資が促され、さらなる発展を遂げていくように思える。

そういった流れは一概に悪いものだとは思わない。

むしろ、技術革新によってさらに便利で効率的で、より多くの人を救えるような、より多くの人が比較的平等になる社会に近づきつつあるのだと思う。

しかし、だからといって全くもって「メディア」が全てであり、「人」は身体を持った媒介でしかなく、生きている生身の人を切り捨てるような言説が良いものだとは思えない。少なくとも、より広く現状を認識し、より深く理解できるような知識・経験・批判の入り口はあって然るべきだろう。

その一環として、こうしてインターネット上に最低限の現状に対する学問的な情報を流してみている。

もちろん、これですべてを語っているわけではなく、これからも外にも内にも向いた学びと批判は続けていきたいと思う。

注釈・参考文献   [ + ]

1. 『魔法の世紀』を著作した落合陽一助教が推し進める世界観では、現実とヴァーチャルの区別がつかないような「デジタルネイチャー」を目指している。が、この世界観は技術革新をもたらすための資本主義的社会を前提としており、人工知能を始めとしたテクノロジーの発展によって、いわゆる中間層の仕事はなくなうことを示唆しており、「魔法の世紀は裏を返せば奴隷の世紀」でもあると言及している。

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