前回の記事では、かなり抽象的に「そもそも社会ってどんなものなんだ?」ということに関して突っ込んだ。

得体の知れない何かを探る中で見えてくるのは、社会と文化というものは意識しないとどうにも違いを掴みづらいということ。
そのため、学問である文化人類学と社会学の違いもイマイチ分からない領域も一部あるのだが、そのことと社会学が誕生したことは「近代を反省するまなざし」を持つことと関係している。
しかし、社会という用語が近代になって定着していったとしても、いったい社会とはなんなのかということに関しては煙に巻くような書き方でもあったので、補足しておこう!
集団と個人
社会とは何かということを考える際に「集団」のイメージがあることと思う。
では、その集団を構成しているのは何か?
もちろん、それは「人」であり、つまりは「個人」なのである。
抽象的な概念を捉える上で「要素を切り分けてみる」ことが大事だ!
というわけで、「社会」というとてつもなく大きな対象というよりも、思い切って「最小の社会」とは何かを考えてみよう。
最小の社会
「私」という哲学
まず、出発点としては個人がいることは誰しもに疑いがないことだろう。
個人を考えると言ってもそれもまた抽象的なのでここでは一番身近な個人である「私」について考えてみよう。
だけどもだけっど!
「そもそも私って誰?」
という問いかけは非常にまた抽象的な概念に陥りやすい。
深入りすれば確実に哲学的な領域に首を突っ込まざるを得なくなる。
それはそれで、また知的好奇心あふれるセカイではるのだが、今回はさらりと流していこう。

「私」と「両親」の関係こそが「最小の社会」
「私」がどのように誕生したのか考えてみると、一番はじめに何があったかというとほぼ確実に「両親」の元に生まれたことは当然だと言える。
で、ここで先に結論を述べてしまうと、「最小の社会」とはこの「両親」と「私」との間に結ばれた関係だ。
日本といった国に生まれたから日本という社会とか、どこそこの地域に生まれたからどこどこの社会とか、あるいはまるまるの組織に所属しているとか、いろんな社会的な関係というものがある。
が、最小の社会とは「私と両親との関係」なのである((ここでいう最小の社会から、社会は「関係」のもとに成り立っていることが垣間見える。ただし、一般的に「社会とは◯◯だ」と言い切れるほど、抽象的な社会を扱う社会学は簡単ではない。社会学が対象とするものは幅広いが、それゆえに社会理論を構築するため、つまり「社会」とは何かを定めるためにさまざまな論考が積み重ねられてきていることには注意されたし。))。
当然、その両親もそれぞれに両親を持ち、また両親だけでなく兄妹がいることもあるわけだけども、最小の社会とは言えないのだ。
抽象的な社会
そう考えてみると「社会」、ここでは「抽象的な社会」もいったいなんなのか見えてくるはずだ。
例えば、こんなことが挙げられる。
- 「社会」を選択することはできない
- 「社会」という環境が「個人」に及ぼす影響は大きい
- 場面場面で「従」と「属」といった権力関係が機能する
両親を選択できないように社会を選択することはできないし、両親といった育つ環境は個人の形成に影響を与えるし、「親」と「子」という風に「育てる者」と「育てられる者」という権力関係がある。
いわゆる封建的な分かりやすい従属関係が解体されていく中で、登場したのが「反省するまなざし」を持った社会学だった。
というのも、技術革新や宗教改革が行われた近代社会がもたらしたものは、資本主義のもとに活発な社会的な関係が形作られる中で生まれた新たな権力関係や格差、社会問題といったものだったからだ。
まとめ
ここまでで、なんとなく社会が何で、社会学というものがどのような考えを持って登場してきたのかが見えてきたことと思う。
「自分がどのような『社会』にいて、どのような価値観に影響され、どのようなまなざしのもとに生きているのか?」
そんなことと向き合うことが、社会学といった領域を学ぶきっかけになることと思うし、絶えずその連続をしていくことが重要なのだと僕は思う。
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