ゼミ内でイデオロギーと権力に関するミニプレゼン実施 キーワード中心の勉強会

2019年、所属する「ことばと文化ゼミ」では学部生、院生ともに人数が増加し、指導教員である井出里咲子先生の負担が増加していた。というのも、学部のゼミと院のゼミをそれぞれ行っており、それぞれに論文指導を行う中、負担する大学教育・事務への対処が並行してなされていたからだ。院生はともかく、学部生が増えた要因として人文系、とりわけコミュニケーション系、人類学系の教員が学部で減ってしまったということがある。大学改革に関心を持つ僕としては、内部で見聞きすることも合わせて嫌な気分が胸によぎることが多くなった。昨今の社会情勢を鑑みても、まったく明るい気分にはならない。

それはさておき、個人的な方針としてももっと「ゼミ」の環境を良い方向に進むことに寄与していきたいと考えて2019年は行動していた(今現在、休学中)。そんな折、10月の秋学期から学部と院のゼミを合同でやることになった。兼ねてから、院生でキーワード中心の輪読を行うといいのではないかと話していたので、学部生にもちょうどいいだろうということで院生中心に「『Journal of Lingusitic Anthropology』 vol. 9, Issue 1‐2」であげられているキーワードについてミニプレゼンという名の勉強会を行うこととなった。

まだミニプレゼンを始めて二回分しか行っていないので、今後、やり方は変わる可能性は大いにあるものの、基本的な方法としてはこうだ。まず、院生一人につき「二本」の関連するキーワード解説文章をピックアップする。ミニプレゼンまでに発表者はレジュメ、もしくはパワポにて発表準備と資料を用意し、その他の人はキーワード解説文章に一度でも目を通しておく。発表者によるミニプレゼンは30分、その他全員で質疑応答、解説など含めたディスカッションを30分行うというものだ。

初回は「指標性(Indexicality)」「空間(Space)」、そして僕が行った二回目が「イデオロギー(Ideology)」「権力(Power)」だ。イデオロギーと権力は近代社会を捉える上で人文学、社会科学では超がつくほどの重要なキーワードだ。ゆえにさまざまな人がさまざまな立場から論じてきた概念で、クリアーに説明することはとても難しい。しかし、イデオロギーと権力をどのように捉えるかによって、その人の社会的、政治的態度が一定程度定められるといってもいい。だから、十全に理解できるとは言わなくとも、理解に向けた足掛かりは軽やかにあっていいのではないかと思う。そのような相対的な理解をできてこそのイデオロギー論だからだ。学部生にも向けたゼミでの勉強会として、思い切って「よく聞いて考えれば概要がわかった気になる」ことを目標にまとめたのが今回のミニプレゼンだ。

イデオロギーと権力

というわけで、下記が使用したミニプレゼン資料。

個人的にはもっと突っ込んで紹介し、かつ議論したいことがある。それは「主体」の問題だ。メインの研究テーマとして掲げる日本社会における「自己責任論」のディスコース分析を行う上でも、近代社会からポスト近代にせよ、再帰的近代にせよ、あるいはポストヒューマンな世界にせよ、いずれにしても「主体」の問題は人文学分野で研究する者としては欠かせないテーマだ。

個人的に、アーレントをはじめとした公共性から、メディア・ジャーナリズムを扱える言説分析に興味を持ち、批判的談話研究を研究分野として選びつつも、今現在、言語人類学的な研究分野に移行してきた背景に、この「イデオロギー」と「権力」への理解、同時に理論的かつ方法論的な発展可能性を想定した、ということがある。

諸々の理由で休学しながらも、こうして勉強・研究を続けていながら、まさに勉強すればするほど、今現在の問題意識を「学問」として、「研究論文」として昇華することに困難を覚える。とはいえ、より良い世界への「理解」に向けても自分自身だけではなく、共に学び合える仲間との関係が重要だと感じている。

そこで、2019年のスタンスとして「ゼミに貢献する」ということを掲げている。うまく行っているかはわからないが、不器用ながらもそれとなく何か良い方向に向かっているなら嬉しいなと思う。

話をそらしてしまったが、今回のミニプレゼンでまとめたことは現在社会、言うなれば情報社会における「イデオロギー」や「権力」、ならびに「主体」を考えていくためにも必要な過去の遺産へのほんのちょっとした理解にしかすぎない。個人的に、「自己責任論」が日本社会で繰り返される一つの要因に「間メディア社会」の「主体化権力」とでも言えるようなものが働いているのではないかと思うのだ。

これは「能動的主体」であろうとすればするほど、それらが各主体によって散漫に(言い換えれば、歴史社会的な理解や哲学なく)発揮され、見えざる「主体化への情動」を喚起されていく権力だ。

まだうまく言語化しきれていないのでこの辺にしておくが、この「権力」はかなり厄介な権力観だと思っている。なぜなら一見すると、「とても良い響き」を持って肯定的に受け止められている主体化が逆説的にさまざまな「主体」の複数性を遠ざけてしまっているかもしれないからだ。

この理解は日本文化的な規範(村八分、ウチソトヨソ)が情報社会化によって再構成されていることも含んで捉えている。

いろいろとまじめに議論立てていくと面倒なのでこれ以上はやめておこう…とにもかくにも、全然よくなってないやんけ!」と叫びたくなるほど、今の状況はかんばしくない。これまで「実践」を重視して活動してきたこともあるので、逆にこれからはもっと息の長い議論を引継ぎ、生み出していくことにもしっかりエネルギーをさきたいと思う。乞うご期待(研究は甘くはない…)。

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