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研究・実践における大きな目標―批評/批判/対話的コミュニケーション空間の持続と発展に寄与する

僕が研究する目標をズバッと言うとどうなるか、少しまとまったので書き記しておく。

タイトルにもある通り、「批評/批判/対話的コミュニケーション空間の持続と発展に寄与する」ことが、研究を行う上でもそうだし、実践的に活動する上でも常に心がけていきたいと考えていることだ。

批評/批判/対話

批評―社会文化で紡がれる文脈を位置づけながら論じる行為

正直に言うと、「批評」という行為に興味を持ったのは最近のことで、まだあまり整理しきれていない。

暫定的ではあるが、批評とは「社会文化的な事象の文脈を論者のまなざしから位置づけながら、社会文化を論じる行為」だと捉えている。

日本で批評を積極的に行っている取り組みの一つに「ゲンロン」があるだろう。経営者であり、哲学者であり、批評家でもある東浩紀が中心となって、「批評を再生するための活動」を展開している。東さんも言及しているが、その取組が「大学」や「研究」から一定の距離を取って(むしろ積極的に離れた中で)、資本主義社会の中でも批評を継続的に行うためのシステムを作っていることだ。

批評の意義の一つに、「大学」や「研究」という取り組みも、外からメタ的に論じることで、ある種の健全さを保つエコシステム的な役割を持っていることなのだと聞く。僕自身は文芸事情に詳しいわけではないのでゲンロンの活動を批評できるほどではないが、とても魅力的な取り組みだと思う。こうした言論空間は「ゲンロン」の一強だけだとあまりよろしくないと思うので(ゲンロンに携わっている人はそれを強く認識しているように思う)、もっといろんな集団やシステムがなるべく、健全に出てくると良いと思い、密かに応援している。

もし、自分も知力・体力がつけば、いつか何か批評活動をやってみたい。

批判―改善のためのコミュニケーション行為

まず第一に「批判と非難」は区別して僕は捉えている。

批判と非難を対比して浮かび上がる対話を前提とした広義の批判

ただし、これは一般向けに説明するための、すごくざっくりとしたもので、哲学的な「批判」概念はカントやヘーゲル・マルクスの弁証法をはじめとして、またフランクフルト学派の批判理論などなど、一定の認知はしているつもりだが、まだまだ勉強不足でこれまた「批判」も捉えきれているわけではない。

ニーチェのルサンチマン的な「怨恨」に単にとらわれたくもないが、いつどのように発露してしまうか、自分ではなかなか気づきにくいものだろう。

だが、やはり、哲学に限らずさまざまな勉強を積み重ねる中で、流れてくる情報を見る中で、考えを巡らす中で、「もっとこうした方がよりベターなんじゃないか」と思うことはたくさんある。

さらに、研究をして追求しているのは「ことば」を中心とした「価値観」やその変遷である。こうした調査・分析するという行為自体、批判的な営為だと思っている。

もちろん、単に「自分が正しい」などと声高らかに叫ぶためではなく、社会文化といった世界を見る、「自分自身」も批判的に捉え、超越していくことを忘れないでいたい。「批判」には、これからも「変化をする意志」を込めている。

対話―共在のためのコミュニケーション行為

批判的な研究をしているのも、単に「批判的」であることが気持ちいいのではなく、常に「他者」と共在して生きていることが前提にある。世の中、大多数が「顔も名前も知らない”他者”」だ。

「他者」に関しても、哲学的にさまざまな論考がある。正直、これも整理しきれていない。

けれど、僕がコミュニケーションやディスコースの研究を行う大前提には、少しでも「他者」のまなざしを世に問いかけることにある。

「自由に生きる」ということはとても素晴らしいことだと思うし、価値あることであってそう簡単に、人の選択を断じることは僕にはできない。けれど、逆説的に言えば「自由に生きる」ためには、「自己/他者」をどのように位置づけるのか、それは当人の考えとしても、社会のシステムとしても、文化的な概念や領域としても、あらゆる角度から考え”続ける”必要があるはずだ。

なぜなら、コミュニケーションとは本質的に「偶発的」なもので、それはつまり、生きるということは「偶然」によって成り立っているからである。だから、単に「自由」だけを価値として信じることは、脆いのだ。いつか、自分が「自由でない」ことを知ったときに、いともたやすく崩れ去ってしまう。

だから、研究をする前提にある、「批判と対話」はセットなのである。

研究の方向性

繰り返すと、「批評/批判/対話的コミュニケーション空間の持続と発展に寄与する」ことが、なにをするにしても重視する価値観だ。俗に言えば、「社会や文化の新陳代謝」をすると言えるかもしれない。

もう少し、コミュニケーション/ディスコース研究をする上での方向性をまとめると以下のようになる。

テクスト(ミクロ)とディスコース(メゾ)がメディアを媒介して、ディスクール(マクロ)が、個人・社会集団・文化の位相の中で関心/利害を軸にした<価値>をめぐって動的に形成される言説分析の実践と理論・方法論の洗練化

とりあえず、「ミクロ-メゾ-マクロ」の軸でコミュニケーションを見ている。これも暫定的なもので、ちょこちょこ修正していくつもりだ。

研究の方向性について、具体的な言及は別記事で。

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研究の方向性①―ミクロ-メゾ-マクロのコミュニケーション/ディスコースを分析する

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