更新:教養系ラジオStudy Talk vol.1~vol.3―うなずき合いと訣れて語り合いを紡ぐ

研究の方向性①―ミクロ-メゾ-マクロのコミュニケーション/ディスコースを分析する

以下の雑記記事で、大まかな研究を行っていく上での目標を宣言した。「批評/批判/対話」についての認識をまとめている。

研究・実践における大きな目標―批評/批判/対話的コミュニケーション空間の持続と発展に寄与する

ディスコース研究を行う上で、もう少し具体的に研究の方向性をまとめると以下のようになる。

テクスト(ミクロ)とディスコース(メゾ)がメディアを媒介して、ディスクール(マクロ)が、個人・社会集団・文化の位相の中で「情動-関心-利害」を軸にした<価値>をめぐって動的に形成される言説分析の実践と理論・方法論の洗練化

ミクロ-メゾ-マクロ

ミクロ―日常生活のパラダイムにおけるテクスト分析

正直、言語学を学んでいるくせに一番苦手意識を持っているのが、テクスト分析だ。しょうがないだろう、もともと哲学好きで、学部時代に学んでいたのも国際関係論や文化人類学なのだから…

などという言い訳ばかりはいけないが、「日常生活のパラダイム」を見ることにはこだわりがある。

というのも、抽象的な社会文化といったものは確かに抽象的なもので、それを分析する・論じるには、どうしてもまた抽象的なものになってしまう。しかし、そればかりに終始したくないと考えている。なぜなら、日常の些細なやり取りの中にも、立派な「社会文化」的な特徴が現れているからだ。

そして、同時にミクロな日常生活にも焦点を当てるような、地道で緻密なコミュニケーションを調査していくことで、より具体的かつ説得的に、世に「社会文化のあり方」を問いかけることができるのではないかと思うからだ。

基本的には文化人類学的なまなざしで見ているので、実践的にコミュニケーション空間に携わっている以上、なにかそれを良い方向に変化させられるように努力したいと思っている。逆にそれをしないのであれば、単に哲学をしていればいいのだ。そうしたら、わざわざこんなサイトでちまちま書いていやしない。

メゾ―社会文化空間のパラダイムにおけるディスコース分析

言語学関連の分野では談話分析、人類学や社会学関連の分野では言説分析(ソフトな)と呼ばれる分析領域が「メゾ」に当たる。

「ミクロ-マクロ」はよく語られることが多いだろう。だがしかし、「ディスコース」と名のつく分野はさまざまな学問が隣接して展開されていて、二項対立的な枠組みでは捉えきれない、というか正確ではないのである。

そこで、その中間に当たる「メゾ」の領域として、社会文化空間のパラダイムを捉えている。

後述する「マクロ」な領域はフーコーのいう「ディスクール(ハードな言説分析)」だとすると、「メゾ」な領域は広く社会言語学カルチュラル・スタディーズ知識社会学などで論じられている「ディスコース(ソフトな言説分析)」と、カテゴライズすると上手く整理される。

マクロ―特定の時代空間のパラダイムにおけるディスクール分析

「ディスコース」や「言説」と聞くと、まず第一に思い浮かばれるのが哲学者フーコーの仕事だろう。

フーコーが言説分析として対象にした範囲はとてつもなく広く、また抽象度が高い。その圧倒的に広範囲に及ぶ分析と成果は、ニーチェが既存の哲学を転覆させたことを、実証的にも示し得たと言われるほどインパクトの強いものだといえるだろう。

そのため、後世の研究者たちが「言説分析」と名のつく研究をする際にも、方法論的な問題がさまざまな角度から検討されてきた。和書では、『言説分析の可能性 社会学的方法の迷宮から』が、そんな言説分析の困難さを示している。

しかし、それは「ハードな言説分析」、つまりフーコーが行ったような「ディスクール」にこだわるからこそ、起きている論争だと捉えている。特に、社会理論の構築を志向する社会学にとって、強い知識社会学がたどったオワコン化と同じように、その「不可能性」を突きつけてしまうことから、周辺化されがちな領域になってしまってきたのではないかと思うのだ。

確かに、実証主義者からすると言説分析は解釈主義的すぎるのだろう。だが、以下の記事で紹介した『社会科学の考え方―認識論、リサーチ・デザイン、手法』にもある通り、経験的な社会科学の研究分野として、立派な手法として用いられているものの一つである。

大学3年生までには押さえておきたい社会科学の考え方ー「方法論=認識論+リサーチ・デザイン+手法」

特に、認識論としては批判的実在論を軸にする批判的談話研究(Critical Discourse Studies:CDS)が積み重ねてきた論考は、ミクロなテクスト分析からマクロなディスクール分析まで(と言っても、CDSはメゾ領域を対象にすることはほとんどだが)を射程に入れたディスコース研究の可能性を示している。そうした研究の成果を無視して、「ディスクール分析」こそが唯一無二の「言説分析」というのは、視野が狭いのではないかと思うのだ。

ディスコース研究の困難と可能性

ディスコースという概念は、その出自からも、かなり厄介で捉えがたいものであることは間違いない。カオスな領域に飛び込んで、火遊びを楽しめるようなタイプの研究者か、執念深く、「ことば」の資料を収集、分析できる人でないと難しいだろう。

ディスコース研究はいわば「なんでもありで容易に通俗化する」などと批判されることもあるが、どんな研究であれ、当事者が怠ければそれ相応のできになるものであり、研究の問いや方法論は異なれど、簡単な学問などありはしないと思うのだ。

個人的には社会学の分野で言説分析に突っ込むとその社会理論との相性との悪さを鑑みると、人類学記号論の枠組みで理論を構築し、捉えるのが適切なのではないかと思う。もちろん、だからといって社会学の分野で言説分析が行えないというわけではなく、あくまで相性の問題として、ということである。

言語学の一分野、語用論学会でも児玉徳美(2011)『言語分析の提言』にて、「言語分析から言説分析への対象の拡大」という問題提起がなされている。取り組んでいる人が少ない分、研究分野として方法論を洗練化させつつ、具体的な分析を行って、研究分野を開拓する可能性があるのではないかと思う。

その幅広い概念を捉えた上で分析を行う、「ディスコース研究」の困難さはあるが、逆に言えば可能性に開かれた手法だろう。

Next Article

研究の方向性②―個人・社会・文化の位相で情動-関心-利害を軸にした<価値>をめぐったディスコース分析

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 * が付いている欄は必須項目です