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個人から普遍への問いである「哲学」と精神史としての「哲学学」

前回の記事で、哲学とは「本当のところどうなのだろうか?」と問い、疑うことからはじまり、また「自分にとって最も切実な問いとはなにか」ということを考える中で「自分と向き合う」ことだとした。

哲学とは何か―自分にとって最も切実な問いを考え続けるということ

もう一つ、「哲学とはなにか」を押さえる上で重要なのが上記の「哲学」と、これまでさまざまな哲学者たちによって語られてきた精神史としての「哲学学」を区別することだ。

哲学―個々人から全体、普遍への問い

哲学は、まずは「疑う」ことであるとしたが、さらに言えば単なる「個々人」からの問いかけに終わるのではなく、それを「全体(すべて)」に当てはまるような「普遍的」な応えへと徹底的に追求することにある。

つまり、単なる個別のものに終始してしまうのではなく、<全体志向>の学問なのだ。

生きることとはなにか、生きることに意味はあるのか?

例えば、「生きるとはどういうことなのか?」という問いを持ったとしよう。単純に考えれば、「わたしが生まれて、食って、寝て、いつか死ぬ。」という話で終わる。けれど、「生とはなにか?」という問いかけは、そもそも「わたしとは何か?」ということにもつながる。どういうことかというと、最初に「わたしが生まれる」という部分から、すでに「わたしじゃない”誰か”」、つまり「両親」が存在する。

しかし、それを遡っていくと、「両親にも両親はいる」し、「両親たちにも知人友人」がいるし、そうじゃない「他者」がいるとどんどんどんと連鎖していってしまう。

キリがないので問いを「ひとはなぜ生きるのか?」と変えたとしよう。問題になるのは、おそらく「生きる”意味”」だろう。「生まれたときから両親に愛されているとは感じない、なぜそんな状況で生きなければならないのか」。そんな思いがこみ上げた問いかけに対して、「それでも生きることは大切だ。死んでしまっては誰かが”悲しむ”し、”迷惑”をかけることもある。」と返されたとしても、「なぜ”わたし”が生きる、死ぬということを他人の”悲しむ”とか”迷惑”をかけるとかありきたりな道徳感で判断されなければならないのだろう」と問いかけが生まれるかもしれない。

かつて、戦時中において「特攻」をした兵士たちがいたように、誰かの命令によって、誰かとの関係において「生と死」の意味付けをすることができるかもしれないが、そこで素朴に「なぜ戦争をするのか。なぜ国や街を守る必要があるのか。」と、その戦争や争いを行っている「意味」そのものをさらに問いかけることができる。つまり、自分の命も社会集団の存続の「意味」は、さらになにか外部にあるものとして求められなければならない、と問いかけていくことができるのである1)貫成人(2004)『哲学マップ』における「第一章 哲学の出発点」のイリツキさんの場合を参考に執筆した。

このように、思考をめぐらしていくことで、個々人の「問いかけ」から徐々に全体への「問いかけ」へと向かっていくことが「哲学する」ということの一例だ。

哲学学―哲学史、精神史

一方、哲学学とはこれまで歴史に名を残してきた哲学者たちの考えや知識を学ぶことである。

古代ギリシャ時代の生きたソクラテスは「無知の知」と言ったことやその考えに至るまでの経緯、プラトンは「◯◯とは何か」に当てはまる「イデア」という概念を発案してソクラテスの考えを発展的に引き継いでいった。一方、中世ヨーロッパにおいて、デカルトは「善悪」や「生死」とはなにかというおよそ知り得ぬことをどうして知ることができるのか、「そもそもわたしとはなにか」という問いに変化させた。

このように、哲学者同士やそれぞれが生きた時代に影響を受けつつも、「問いと答え」を貯めてきたものを「哲学学」としている

哲学の歴史であるから「哲学史」や「精神史」と呼ばれてもいる2)上記の『哲学マップ』しかり、哲学史の概説書は分かりやすく説明することに重きが置かれており、よく考えると書かれている説明では「論理」として成り立っていないということがままある。「哲学」を研究するとなると、普通は特定の哲学者を選び、かなり徹底的に論理を追求しているのである。つまり、概説書だけを読んで簡単に納得してしまうと、中途半端な知識や思考になってしまう場合もあることに注意しよう。

問いを学び、問いをつくる営みとしての哲学

「哲学」と一重にいっても、「哲学する」ことを指しているのか、「哲学学」のことを指しているのかによって、その意味は大きく異なるといっていいだろう。

個人的な意見を言えば、「哲学する」ことがとても重要だと考えている。

確かに、古代ギリシャ時代にまで遡っても歴史に名を残した哲学者たちが問いかけたことは、言うなれば「超一級品」で、大多数の人が考える「問いと答え」を凌駕する思考ばかりだ。その歴史に経緯を払って学ぶことはとても大切なことだと思う。

一方で、「哲学」で例を挙げたように、本来、哲学の核にあるものは「個々人の”切実な”問いかけ」なのだ。つまり、「わたし」にとってどうしても気がかりになること、それを徹底的に考えることこそが「哲学」なのである。

だから、どんなに過去の哲学者が立派な「問いと答え」を導き出していたとしても、「考えざるをえない問い」があるなら、それを大切にすべきだ。切実な問いをみすみす別の誰かにゆだねてしまってはいけない。

つまり、「哲学学」で言われていることも「本当にそうなのだろうか?」と考えることから、本当の「哲学」がはじまるのだ。

先人たちから「問いを学び」つつも、「問いをつくる」ことが「哲学する」ということになるのである。

「哲学学」で語られてきたことは確かにすばらしいが、哲学者たちも歴史の中の一定の時代を生きていたのであり、また一定の地域の中で思考をめぐらしてきた。ということは、どうしても「その時代」「その地域」における影響を受けてしまうのである。

であるからこそ、「今ここ」の「私たち」の視点から「問いを学び、問いをつくり、問いを解く」ことには、また新しい意味がある。

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注釈・参考文献   [ + ]

1. 貫成人(2004)『哲学マップ』における「第一章 哲学の出発点」のイリツキさんの場合を参考に執筆した。
2. 上記の『哲学マップ』しかり、哲学史の概説書は分かりやすく説明することに重きが置かれており、よく考えると書かれている説明では「論理」として成り立っていないということがままある。「哲学」を研究するとなると、普通は特定の哲学者を選び、かなり徹底的に論理を追求しているのである。つまり、概説書だけを読んで簡単に納得してしまうと、中途半端な知識や思考になってしまう場合もあることに注意しよう。

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