改めて「社会」とは何か―得体の知れない何かを探る中で見えてくる「反省」

「『社会』ってなんですか?」

と聞かれて、ウッと思う人もいることだろう。

「社会は社会じゃ!知るかボケ!」

と罵られてもおかしくない。いや、やっぱり質問しただけで怒られてしまうのはちょっと解せない…

けれど、質問すること自体が相手にとっては「失礼」に当たることもある場合も確かにありそうだ。

日本とアメリカにおけるクラスの空気

質問というと、日本の教育とアメリカの教育を比較されることも珍しくないように思う。

日本では積極的な質問を必ずしも要求されない場合も多いし質問の内容によっては「空気読めよ…」と周りが思うかもしれない。

一方で、アメリカでは創造的な発想や主体的な参加が良いこととされているため質問といった参加の意志が見れなければ「そこにいるの…?」といった目線で見られることもあるそうだ。

ここにすでに「日本」と「アメリカ」といった集団がイメージとしてあり、いわゆる「日本社会」や「アメリカ社会」といったように語られるものが「社会」であると広く認識されていると思う。

社会と文化

「日本社会」や「アメリカ社会」と書いたけども、これって「日本文化」や「アメリカ文化」とも言いかえられる気もしないだろうか?

実際、厳密に「社会」と「文化」を定義しないと2つのことばの違いは上手く浮かび上がってこない。

しかし、違いをしっかり理解するためにはそれぞれのことばがどのように用いられてきたのか、広く認識されるようになったのかということも含めて見ていかないとよく分からないのだ。

社会学という学問も近代になって登場したもので中には文化人類学とどのように違うのか一見よく分からないのは、いかに社会と文化が密接に関係しているかを物語っているように思える。

社会と反省

近代になって社会学が登場したことは社会ということばの意味を紐解くキーポイントだ

実際、日本語においても社会ということばが用いられるようになったのは19世紀からであったりする。

近代において何が起こったかというと、主に西洋ではフランス革命といった人権運動啓蒙思想の流行り、産業革命による労働問題都市問題の誕生、さらには技術革新による科学主義の勃興などなど。

目まぐるしく世界が変化していく中で問われたのが「何か人を巻き込みながら大きく動かすようなものはなんなのか?」という反省的なまなざしだった

どことなく受け入れてきた時代のうねりを、はたと立ち止まって「いったい何が、どうして起きたのか?」と考え始めたことで登場したのが「社会」なのである。

掴みどころがない社会

とは言っても、実際に社会を目にすることは難しくよく分からない何かとしかすぐにはいいようのないものであることには変わりはなさそうだ。

だけども、冒頭で日本では「空気を読めよ…」と思う人がいるといったことの裏には、そしてアメリカのようにそうではない「社会」も一方であるということは、空気を読むことを良しと思わせる「何か」があるということなのだろう。

そんなまなざしを得た時に、改めて「社会」というものへの視野が開かれていくのかもしれない。

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