【要点】2015年IS日本人人質事件における自己責任言説の分析まとめ

2015年に起きたイスラム国(以下、ダーイッシュ)による日本人人質事件における「自己責任」言説についての分析を以下の記事にてまとめました。

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この記事、実に2万字超もあって普通そこまでしたものを読まないと思うんですね。書いておいて難ですが。

というわけで、この記事では分析の要点を高校生に語りかけるように簡単に紹介したいと思います!

そもそも分析して何になるのかって話

ことばってのは変わらないようで変わる不思議なやつです。

同じことばであっても人によって違う意味で使ってることなんてしばしば。

例えば、「ゆとり教育」とか「ゆとり世代」の意味なんて実際あいまいで間違った解釈なんかもしばしば。

他にも「意識高い系」なんてことばもそうだけど、ことばというものは社会とか文化とも密接に関連しあっている。

そんな背景を持つ「力を持ったことば」は時に人々に影響を与えるんだよね。

今回の「自己責任」を例に挙げれば、「あなたたちの自己責任なのだから私は助けません」とかね。

意見は多様であって当然だけど、「じゃあ、実際にどうしていくか?」ってことを考えていくには議論をしていく必要があるわけだ。

議論をするのに、ことばの意味があいまいなまま話しててもただ平行線に言い合いをすることになってしまう。

それは最近言われるような、コミュニケーションが上手くいっていない典型例だ。

というわけで、ただ「自己責任」について考えるだけじゃなくて、実際にみんながどんなことばを使ったりどんな話し方・書き方をしたのかってことを分析することで、多少なりともコミュニケーションのすれ違いをなくそうってわけ。

要するに、無意識に使っていることばを意識的にどんなものだったのか見えるようにして、まともな議論をしていくようにしようってことが分析をする目標なのである

結論

  1. そもそも後藤さんは「責任は自分にある」と言い残し、覚悟をして現地に赴いていた
  2. 人質らの「自己責任か否か」ということばかりがキャッチコピー的に拡散し、事件そのものへの関心が薄れていた
  3. 「自己責任≒自業自得」という風に多義語化が進んでいると思われる
  4. 「自己責任」と言っても人々によって使っていることばの意味や前提や価値観は異なるのも注意する必要がある
  5. 名詞化として機能する「自己責任」ということばが議論をあいまいなものにしていると思われる

①後藤さんにとっての責任

後藤さんはシリアに赴く前にご自身でビデオメッセージを残していた。そのメッセージの一部がこちら。

「何が起こっても責任は私自身にあります。どうか日本のみなさんもシリアの人たちに何も責任を負わせないでください。」

ここで、責任はあると後藤さん自身から語られてはいるが、この発言の趣旨はメッセージにある通り、「シリアの人たちに責任を負わせるようなことはしないでほしい」とのことだと分かる。

ということは、あくまで責任を誰に負わせるのかという点で対比されているのは「後藤さん」と「シリアの人びと」であり、このメッセージを投げかけているのは日本人に向けてだと考えると、後藤さんの発言において意味する責任とは、「何か起こっても自分が起こした行為の結果であるという覚悟を持ってシリアに向かう」ということになる。

何を持って「責任」となすことができるのかは後藤さんの発言から読み取ることはこれ以上できないが、少なくともシリアでダーイッシュに拘束されてしまったという極限の状況下の中で出来ることは大いに限られており、一概に後藤さんの「自己責任か否か」という論点に終始した議論が有効だとは思えない

②「自己責任」というキャッチコピー

本件に関する論争では、人質ら二人の「自己責任か否か」という点に端を発して様々な意見が出てきた。

こうした議論が巻き起こる中で、そもそも人質を取ったダーイッシュという集団の存在がどうも隠れてしまっていったように思えてならない。

確かに、日本人にとっては人質となった二人の行動の是非に関連する事案が中東地域の組織の実情よりも興味関心としては大きくひかれる部分があるかもしれない。

だが、移動技術の発展やインターネットの登場でよりグローバル化と呼ばれる現象が進んでいる現在においては、関心度が高いからといって他人事で済ませてしまえる問題でもないのもまた事実だとは言えないだろうか?

「誰々の自己責任だ!」と言ってしまえれば楽だが、複雑性がますます高まる昨今の情勢を見ている中で、強い言葉、楽な発想に流され、何が起きているのか、その上でどうすべきだったのか、どうしていくのがベターなのかといったことを対話を通して考えていくことを止めてしまうことは、思考停止に陥ってしまっている側面があると思う。

③自己責任≒自業自得:多義語化

自己責任ということばは1998年出版の広辞苑第5版には載っておらず、2008年出版の第6版から登載されるに至った。

元々は経済用語の「自己責任の原則」として使われだしたことばだが、2004年のユーキャン流行語大賞にノミネートされたように、やはり昨今において広く認知され使われるようになったことばだと言える。

そうした中、コメント分析の中で「非難」の意味として使われている「自己責任」がほとんど「自業自得」と置き換えることが出来る点に注目した。

これは、徐々に「自己責任≒自業自得」という風に多義語化が進んでいるのではないかと考察した。

④様々な「自己責任」

③にて「自己責任≒自業自得」となっているように「自己責任」ということばを誰が、どのような意味合いで使っているのか注意する必要がある。

もしそうしなければ、自分自身が想定している「自己責任」という意味で解釈をしようとし、そうではない他者との対立が生まれる。

当然、完全に意味を一致させることは不可能に等しいわけでが、少なくとも一方的な主張をするのではなく、建設的な議論を行っていきたいのであれば、自分たちの前提とするものは何が違うかなどすり合わせるような対話が必要だ

概念としての「自己責任」にこだわりすぎても、実際にそれぞれの人びとがどのような視点で考え話しているのかを見落とすことになりかねない。

⑤「自己責任」という名詞化

名詞化とは、「主語があって目的語があって動詞があって」といった節を名詞系に変化させてしまうことを言う。

この名詞化によって何が起こるかというと、過程としてあった一連の出来事を実体として表現してしまうことで、その過程を表現上削ってしまうわけだ。

「誰が、何を、いつ、どこで、どのように」といったようないわゆる5W1Hで本来は表現できるものが、名詞化という文法的隠喩によって見えなくなってしまう。

今回の「自己責任論」においても、たった今「自己責任論」と表現したように、名詞化され、あるものとされてしまうわけだ。

もともと曖昧な概念である「責任」に「自己」が追加されることで具体的になっているようで、ある意味で別の曖昧さが付け加えられてしまい、様々な解釈が新たにもたらされている

最後に

細かな分析上の問題点はあることを自覚しているが、今回の分析を通して「自己責任」ということばがどのように語られて、どのような効果をもたらしていたかが、少なくともIS日本人人質事件においてのケースとしては明るみになったと思う。

敢えて未熟さを自覚しながらも公開しているのは、批判的な目線をもってよりよい議論をしていくという狙いが実はあったりする。

だから敢えて、分析のまとめもこの記事にて行ってみた。

ただの主観的な解釈に陥らず、相互的な主観を共有したものを間主観性という。

独断に陥ら切らず、多種多様な声を聞き、それでいて自分なりの視点を持って物事を捉え、発信し、反省もしていく。

そのようなことをこれからも行っていきたい。

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