社会学の考え方―方法論的全体主義と形式への着目

社会学は19世紀における「啓蒙思想・産業革命・科学主義」という歴史的背景のもと、近代に対する反省のまなざしから登場した学問だった。詳しくは以下の記事にて解説1)引き続き、『社会学入門 〈多元化する時代〉をどう捉えるか』を主に参考。

社会と個人―最小の社会である「私と両親との関係」から見える社会の特徴

社会学を基礎づけようとする試みは「理論社会学」という分野にてなされてきたが、政治学や経済学ほど統一された枠組みを残念ながら持てていないのが現状だ。

だが、ここまではおおよその社会学者が共通して持っているというものがある。

それが、方法論的全体主義だ。

社会学の理論を捉える上でのキー概念

  • 方法論的全体主義
  • 形式主義(コミュニケーションへの着目)

方法論的個人主義と方法論的全体主義

先ほど経済学は比較的統一的な枠組みを持つと言ったが、その経済学では合理的経済人である「個人」を起点にした理論を前提に議論が展開されている。

一方、社会学では方法論的個人主義では汲み取り切れない社会的集団の存在を重視するために方法論的全体主義というアプローチを取る

方法論的個人主義

経済学が前提としてよく挙げる合理的経済人とは、個人や企業といったプレイヤーは「自分の利益を最大化する」ために動くというモデルだ。

つまり、利益を最大化させるためになるべく少ないコストで効率的に多くの収入を得ようとするのが合理的経済人の指す意味である。

極端に言うと、社会的な存在は認めず、あくまでも個人や企業が自らの利益を追求する中で分業しながら社会的な役割分担が形成されていくというように捉えているという感じだ。

しかし、社会学的にはこのような捉え方は「いささか単純化しすぎているのではないか?」という批判がある。

人間はそこまで合理的ではなく、損得勘定だけでは動かない側面もたくさんあるはずだ。中には当然、「自己の利益第一!」という人もいるだろうが、現実の社会には多種多様な人々が生きている。

あくまでも、経済的な活動を見る上でモデルを限定して理論を構築していくのに方法論的個人主義は有効であっても、「社会」を問う社会学にとっては限定的な物の見方に留まってしまうというわけだ。

方法論的全体主義

そこで、登場するのが方法論的全体主義という捉え方になる。ここでいう「全体主義」とは、ファシズムという意味ではなく、分析の基本単位を個人ではなく社会とするという意味合いだ。

社会学者が見ようとしているのは、「さまざまな集団が持っている習慣やルールを成り立たせているものはなんなのか?」といったものなのである。

個人だけには還元しきれない、相互的に構築された複雑なシステムに迫ろうとしているわけだ

これって簡単に言ってしまったが、ものすごく難しいことなのである…

「複雑なものを複雑なまま理解しよう」と言っているのだから大変だ。経済学のようにモデルを「合理的経済人」にそろえることで、敢えて単純化し市場経済のあり方に迫るという方が科学的だと言いやすいように確かに思う。

だが、見たい対象が「複雑に成り立った社会」なのだから、方法論的全体主義的な見方をせざるを得ない。

しかし、ここで問題がある。

「いったいどこまでを『社会』と捉えるのか?」

という問題だ。

ここでは、あくまでも研究者の問題意識によって対象を適宜選択するという考え方と、社会有機体説という考え方の二つがある。

社会有機体説という考え方だと、個人よりも社会こそが個体のようなものとして捉えるのだが、これはファシズムを生むなどした歴史的失敗を経験してきた。方法論云々の前に道徳的にNGというわけだ

このような政治的な意味合いではなく、科学的な方法論としての「全体主義」がコミュニケーションによって成り立つ形式に着目するわけである。

形式主義(コミュニケーションへの着目)

社会的なものを成り立たせるためにも、個々のものが集団として維持させる機能を持つような何かしらのルールが存在するはずだ。

サッカーそのものに着目するのではなく、サッカーを成り立たせている共通の土台となっているルールにこそ着目するというわけである。

そして、このルールは言語によって成り立っている

というわけで、社会学は人々の中で共通している一定の意味やルールがあって初めて成り立つ相互行為を「社会学の固有の対象」として捉えようするわけだ。

つまり、社会を形作る知識や規則といった「形式」に着目したのが形式主義のアプローチになる。

肝心の「形式」の中身だが、人を例に図示するとこんな感じ。

『社会学入門 〈多元化する時代〉をどう捉えるか』P70を参考に作成

素材とはいわゆるハードウェアとしての「身体」、形式とはソフトウェアとしての「知識・情報」を指す。

この「知識・情報」は社会的に言語を介して共有されている。

つまり、ソフトウェアとして社会的な意味合いを持った「知識・情報」がハードウェアとしての「身体」に共有されることで、社会的な存在としての人間たちの活動が成り立つということを意味している。

さらに突っ込むと、この社会的に共有されている知識や習慣といったものは広い意味で「文化」と呼ぶことができる。

社会学と人類学が近い距離にある所以というわけだ。

まとめ

基本的に社会学は何かしらの社会やそれを成り立たせているルールに迫るため、方法論的全体主義に則って、コミュニケーションによって成り立つ形式に着目する理論を前提に持っているということが分かってきたかと思う。

複雑に相互作用が入り組んだ社会を見ようというのだから、ややこしいのはしょうがないだろう。

なるべく簡潔に分かりやすく伝えたつもりだ。参考になれば幸いである。

注釈・参考文献   [ + ]

1. 引き続き、『社会学入門 〈多元化する時代〉をどう捉えるか』を主に参考。

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